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平賀源内と杉田玄白と田沼意次にまつわるエピソードとは

はじめに

平賀源内とは、どのような人物だったのか。

平賀源内と杉田玄白には、どのようなエピソードがあったのか。

そして、平賀源内と田沼意次には、どのようなエピソードがあったのか。

この記事では、そのあたりをお伝えしていきます。

平賀源内とは

平賀源内は江戸時代中期の人物で、1728年に生まれ、1780年に亡くなります。

平賀源内の職業はさまざまで、学者、発明家、画家、俳人、作家、鉱山師、コピーライターなどの顔を持っていました。

平賀源内は才能があまりにも豊かであったことから、日本のレオナルド・ダ・ヴンンチと称されることもあります。

平賀源内は、讃岐国(現在の香川県)で生まれます。

幼少時から英明さを知られ、13歳のころから本草学(医学に関する学問)、儒学、さらに俳諧も学びます。

また長崎にも留学。

オランダ語、西洋絵画、鉱山技術などを学びます。

時期ははっきりとしないものの、平賀源内が江戸幕府の老中である田沼意次と面識を得たのは1761年頃。

また、平賀源内と杉田玄白が知り合ったのは1762年頃と考えられています。

幼少の頃から才能が豊かで、様々な学問に接してきた。

加えて、学んだ学問は決して中途半端なものではなく、すべてにおいて一流の域に達していた。

その平賀源内の活動ぶりが世の中に知られるようになり、田沼意次や杉田玄白との接点が生まれたようです。

平賀源内でもっとも有名なのは、エレキテルの復元。

エレキテルとは静電気の発生装置のことで、平賀源内は壊れていたエレキテルを修復。静電気発生の実験に成功をします。

このエレキテルの実験の時の平賀源内の年齢は49歳。

しかし、このときから平賀源内の人生は暗転します。

その後、大名屋敷の修復を請け負った平賀源内ですが、酒を飲んでいるときにふとした誤解が元で大工2人を殺傷しています。

これを悔いた平賀源内は自害を図りますが失敗して投獄をされますが、自害を図った時の怪我が元で破傷風となり、その後に獄死をしています。

幼少時には「天狗小僧」と言われ、後世の人々からは「日本のレオナルド・ダ・ヴンンチ」と称された平賀源内ですが、最期は決して恵まれたものではなかったようです。

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平賀源内と杉田玄白にまつわるエピソードとは


 

 

 

 

 

 

 

平賀源内は、1728年に生まれ、1780年に亡くなっています。

一方の杉田玄白は、1733年に生まれ、1817年に亡くなっています。

杉田玄白は解体新書で知られた医師ですが、平賀源内と杉田玄白にはどのような接点とエピソードがあったのでしょうか。

平賀源内と杉田玄白が知己を得たのは、前述のとおり1762年頃と考えられています。

平賀源内は本草学を学んでいました。

そして1762年に開催をしたのが「東都薬品会」。

この東都薬品会に医師である杉田玄白が平賀源内を訪ねたことで2人の交流が始まります。

ところで、平賀源内は西洋絵画を学んでいました。

そして、平賀源内から絵画を学んでいた人物に小田野直武(おだのなおたけ、1750年~1780年)がいます。

杉田玄白のもっとも有名な事績は「解体新書」の刊行です。

解体新書はオランダ語で記された解剖書「ターヘル アナトミア」を日本語に翻訳したものです。

杉田玄白や前野良沢はオランダ語を日本語に訳すことはできました。

しかし、当時の日本の画家では解剖図を精緻に描くことができませんでした。

そのことを知った平賀源内は杉田玄白に小田野直武を紹介。小田野直武により解体新書の細かな解剖図を描くことができたと言われています。

平賀源内のお墓は東京都台東区に現存しています。

平賀源内が亡くなった後に、平賀源内の葬儀を執り行ったのは杉田玄白。また、平賀源内のお墓の隣には、杉田玄白が平賀源内の功績を讃えた碑が残っています。

平賀源内と杉田玄白。

2人の間には、深い信頼関係があったのではないかと思われるようなエピソードです。

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平賀源内と田沼意次にまつわるエピソードとは

平賀源内は、1728年に生まれ、1780年に亡くなっています。

一方の田沼意次は、1719年に生まれ、1788年に亡くなっています。

平賀源内と杉田玄白については「医学」という共通点があります。

それに対して、田沼意次は江戸幕府の老中を務めたほどの政治家。

2人の間に接点は感じられません。

その2人に接点が生まれたのは、田沼意次の政治姿勢です。

田沼意次は、幕府の財政赤字を解消するために農業よりも商業に重点をおきます。

その一環として行われたのが蘭学の保護。

そして、目に留まったのがさまざまな分野で活躍をする平賀源内。

田沼意次は、平賀源内にオランダ語で書かれた本草学の本を日本語に翻訳する仕事を命じています。

1780年に平賀源内は獄中で亡くなります。

しかし、平賀源内は生きていたという噂もあります。

獄中にいた平賀源内を憐れんだのが田沼意次。

そこで田沼意次は獄中で亡くなった別人を平賀源内とし、平賀源内を獄中から逃がし、江戸から別の場所に移したというものです。

この移した場所は遠江または出羽。

そして平賀源内は80歳以上の長寿を保ったと言われています。

もちろん真偽は定かではないものの、田沼意次と平賀源内の不思議なエピソードです。

さいごに


 

 

 

 

 

 

 

 

 

この記事では、平賀源内とはどのような人物だったのか。

平賀源内と杉田玄白、平賀源内と田沼意次にはどのようなエピソードがあったのかについてご紹介をしてきました。

平賀源内と杉田玄白のエピソードは頷けるような話です。

それに対して、平賀源内と田沼意次のエピソードはいわゆる都市伝説のようにも見受けられます。

果たして、平賀源内の最期は亡くなって杉田玄白に見送られたのでしょうか。

あるいは、平賀源内の最期は獄中ではなく、遠江または出羽だったのでしょうか。

真実がとても気にかかるところです。


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