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藤原定子と藤原彰子の生涯と一条天皇の関わり合いとは!

藤原頼通が造営した宇治平等院鳳凰堂
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はじめに

この記事では藤原定子と藤原彰子の生涯を、一条天皇との関わり合いに触れながら、できるだけわかりやすくお伝えします。

それでは最初に、藤原定子と藤原彰子について一覧でご紹介します。

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藤原定子と藤原彰子

藤原定子藤原彰子
読み方ふじわらのていし又はふじわらのさだこふじわらのしょうし又はふじわらのあきこ
祖父藤原兼家藤原兼家
藤原道隆(ふじわらのみちたか、953年~995年、藤原兼家の長男)藤原道長(ふじわらのみちなが、966年~1028年、藤原兼家の五男)
生没年977年~1001年988年~1074年
一条天皇(980年~1011年)一条天皇(980年~1011年)
子(男子)敦康親王(あつやすしんのう、999年~1019年)後一条天皇(1008年~1036年)・後朱雀天皇(1009年~1045年)
この表で分かることがいくつかあります。

まず、藤原定子も藤原彰子も祖父は藤原兼家、父の藤原道隆と藤原道長は兄弟なので、二人はいとこになります。

また、藤原定子も藤原彰子も夫は一条天皇で、二人とも夫との間に男子が生まれています。

しかし、藤原定子は20歳代前半で亡くなり、さらに皇子も天皇になることなく短い生涯を閉じています。

一方、藤原彰子は当時としては相当に長命を保ち、二人の皇子は天皇の座についています。

それでは、藤原定子・藤原彰子のそれぞれの生涯をお伝えします。

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藤原定子の生涯

藤原定子が一条天皇の中宮(皇后)になったのは990年、僅か13歳の頃です。

当時は公家による政治が行われていた時代で、公家の最高位は関白とされていました。

その関白の座にいたのは藤原定子の父藤原道隆で、藤原道隆は自らの権威を万全のものにするため、藤原定子を中宮にします。

藤原道隆は権力や財力を背景に栄華をほしいままにしますが、995年に病死。

藤原道隆亡き後、後継となったのは藤原兼家の三男で、藤原道隆の弟藤原道兼です。

しかし、藤原道兼もすぐに病死したことで、藤原家の跡目争いが起こります。

その主役となったのが、藤原兼家の五男で藤原道隆の弟藤原道長と、藤原道隆の嫡男藤原伊周(ふじわらのこれちか、974年~1010年)です。

結果は藤原道長の圧勝、藤原伊周は左遷され、藤原定子も落飾(らくしょく、髪を剃り仏門に入ること)します。

997年、藤原伊周は赦され、一条天皇の希望もあって藤原定子も宮中に戻ります。

もっとも、既に落飾していたこと、有力な後ろ盾を失っていたことから、藤原定子の待遇は以前とは比べ物にならなかったようです。

それでも、一条天皇との仲は良かったようで、999年には敦康親王が誕生しています。

しかし1000年には、新たな権力者藤原道長の娘藤原彰子が中宮になります。

一人の天皇に二人の中宮がいるのはおかしなこと、藤原定子は中宮ではなく、皇后宮という名称を与えられます。

そして1001年、藤原定子は皇女を産んだ直後に、23歳又は24歳の若さで亡くなります。

また、一条天皇の第一皇子は藤原定子との間に生まれた敦康親王で、本来は次の天皇になる立場でした。

しかし、藤原道長の権力が絶大であったため実現することもなく、敦康親王も19歳の若さで病没しています。

藤原彰子の生涯

藤原彰子は藤原道長の長女で999年、僅か12歳でに宮中に入り、その後、藤原道長の絶大な権力を背景に中宮になります。

藤原定子が亡くなった当時、一条天皇の後継者となるべき皇子は敦康親王だけでした。

また藤原彰子も幼く、子が生まれる状況でもありませんでした。

そこで、藤原彰子は敦康親王の養母となります。

このことについては権力の維持を図りたい藤原道長にも異存はなく、藤原彰子は周囲の力を得ながら敦康親王の養育に励みます。

1008年、藤原彰子は第二皇子となる男子を産みます(敦成親王・あつひらしんのう、後の後一条天皇)。

さらに翌1009年、第三皇子となる男子を産みます(敦良親王・あつながしんのう、後の御朱雀天皇)。

ここで、野望をあらわにしたのが藤原道長です。

1011年、一条天皇は病にかかり、藤原道長は譲位を迫ります。

一条天皇は第一皇子の敦康親王に譲ることを望み、育て親の藤原彰子もその気持ちに沿っていたと伝えられますが、藤原道長が考えていたこととは全く異なります。

結果として敦康親王は天皇になることなく、一条天皇の従兄弟に譲位(三条天皇)、第二皇子の敦成親王が皇太子になります。

1011年、一条天皇(譲位後は出家して一条院)は崩御し、三条天皇も1016年に敦成親王(後一条天皇)に譲位、翌1017年には崩御します。

後一条天皇が即位するとともに、藤原道長が摂政に任じられます。

さらに、藤原道長は自家の繁栄を万全にするため、1017年に摂政の職などを嫡男藤原頼通に譲り自らは引退、その後は藤原頼通が権力の座につきます。

藤原頼通が権力維持のため使った方法は父の藤原藤原道長と同じで、自らの娘などを宮中に送り込み、天皇との間に皇子が生まれたら、その皇子を天皇につけるというものでした。

しかし、娘などを送り込むことはできたものの、皇子には恵まれませんでした。

また、後一条天皇は1036年に崩御。

さらに第三皇子の敦良親王(後朱雀天皇)が即位したものの1045年に崩御したことで、一条天皇と藤原彰子の間に生まれた二人の天皇は母の藤原彰子よりも先に亡くなっています。

もっとも、後朱雀天皇崩御後には、後朱雀天皇と藤原道長の第六女の間に生まれた後冷泉天皇が即位。

藤原頼通の立場から見ると、この段階ではまだまだ権力が保たれていることを意味しています。

そして、1068年に後冷泉天皇崩御後に即位したのが、後冷泉天皇の弟後三条天皇です。

後三条天皇の父は後朱雀天皇、しかし母は藤原道長との血縁はあったとはいえ藤原氏の出ではありませんでした。

後冷泉天皇までは、常に藤原氏の意向に沿わなければいけませんでしたが、後三条天皇にしがらみはありません。

また、藤原家内部にも後継者争いがあり、少しずつ藤原氏の権力は削がれていきます。

後三条天皇は1073年に崩御しますが、藤原氏が再び大きな権力を持つことはなく、藤原頼通も1074年に亡くなります。

そして、藤原彰子も弟の藤原頼通の後を追いかけるように同年に亡くなっています。

まとめ

この記事では、藤原定子と藤原彰子の関係を、一条天皇との関わり合いに触れながら、できるだけわかりやすくお伝えしました。

藤原定子は父藤原道隆の意向で、幼いうちに一条天皇の中宮になります。

藤原彰子は父藤原道長の意向で、こちらも幼いうちに一条天皇の中宮になります。

ここまでの経緯は似ていますが、父を早くに亡くした藤原定子は後ろ盾を失います。

そのため一条天皇との間で、第一皇子の誕生があったものの、皇子は天皇になることはできませんでした。

また藤原定子自身も、20歳代前半で生涯を閉じています。

一方、藤原彰子は父藤原道長が権力の中枢に昇りつめたことで、その立場は安泰でしたし、二人の王子は天皇の座にもついています。

そこだけを比べると、藤原彰子は藤原定子よりもはるかに大きな幸せをつかんだのかもしれません。

しかし、二人の王子は藤原彰子よりもはるか前に亡くなり、さらに藤原道長・藤原頼道が築き上げた摂関政治の終焉を最晩年で見ることになります。

藤原彰子は87歳という当時としてはかなりの長命を保っていますが、晩年の藤原彰子はどのような気持ちで日々を過ごしていたのでしょうか。

 
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