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海江田信義(有村俊斎)の幕末維新と評価をご紹介します!

上野戦争が行われた不忍池
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この記事では、海江田信義(有村俊斎)の幕末維新の動向。

そして、海江田信義(有村俊斎)の一般的に言われている評価について、ご案内をしていきます。

海江田信義(有村俊斎)とは

海江田信義(有村俊斎)は、幕末の薩摩藩の出身。

生年は1832年。没年は1906年。享年74。明治維新は1868年なので海江田信義(有村俊斎)は、幕末維新を生き抜いた人物と言えそうです。

なお、海江田信義(有村俊斎)は、幕末までは有村俊斎(ありむらしゅんさい)。幕末以降は、海江田信義(かいえだのぶよし)を名乗っています。

そこで、この記事では海江田信義(有村俊斎)を時系列でご紹介するとともに、その時々の名前で書き進めていきたいと思います。

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海江田信義(有村俊斎)の生涯

上野戦争の舞台となった上野の山上野の山

有村俊斎は、1832年に薩摩藩士である有村仁左衛門の次男として生まれ、11歳の時には時の薩摩藩主である島津斉興の茶坊主となります。

※ 茶坊主とは主に城中の雑用に携わる仕事です。茶坊主は僧籍ではなく武士階級の者がその職に当たることになっています。

その後、藩主島津斉興の元で起こった後継者争い。

いわゆる「お由羅騒動」で有村俊斎は窮地に陥りますが、お由羅騒動後に新藩主となった島津斉彬に仕えることになります。

また、この頃、同じ薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通とともに「精忠組」を結成。幕末の志士としての活動を始めるようになります。

名君と言われた島津斉彬は1858年に亡くなります。その後、起こったのが大老井伊直弼による安政の大獄。

精忠組はこの時点で意見の相違などから、井伊直弼の暗殺を企てる一派と、それを自重する一派の2つに分かれてしまいます。

そして起こったのが1860年の桜田門外の変。

有村俊斎は井伊直弼暗殺に対しては自重をしていましたが、有村俊斎の弟である有村次左衛門は桜田門外の変に直接に参加して自害。

また、有村俊斎の弟であり、有村次左衛門の兄である有村雄助は水戸藩士とのつながりが深かったことから薩摩で自害をしています。

1861年、有村俊斎は婿養子の形で婚姻し、海江田信義を名乗るようになり、幕末の志士として活動をします。

特に戊辰戦争では東海道先鋒総督参謀として重職を担い、江戸城無血開城などで活躍をしています。

明治維新後は、一時期、明治政府を離れますが、1870年には奈良県知事に任じられます。

奈良県知事は短い期間で終了し海江田信義は薩摩に帰りますが、ほどなく新政府に戻っています。

1877年に西南戦争で西郷隆盛が亡くなります。1878年には紀尾井坂の変で大久保利通も亡くなります。

しかし、海江田信義はその後も明治政府の中で活躍し、貴族院議員などを務めます。

海江田信義が亡くなったのは1906年(明治39年)。

幕末維新で活躍した人々の多くは不慮の死を遂げることが多かったようですが、海江田信義は病死。74歳の生涯を閉じています。

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海江田信義の評価 大村益次郎との対立

上野戦争の舞台となった上野にある寛永寺寛永寺

海江田信義の評価は、必ずしも芳しいものではありません。そして、海江田信義の評価を決定づけたのが、長州藩の大村益次郎との対立です。

鳥羽伏見の戦いで勝利をした官軍は江戸へ攻め込みます。

官軍を放置しておくと、江戸は火の海となり灰燼に帰す可能性もありましたが、それを押しとどめたのが幕府の勝海舟と、薩摩藩の西郷隆盛や海江田信義です。

言い換えれば、勝海舟と西郷隆盛や海江田信義の間には信頼関係が結ばれていました。

当時、幕府の代表として活躍をしていた勝海舟の背後には彰義隊があり、彰義隊は江戸の治安維持に役立っていたと言われています。

西郷隆盛や海江田信義には、彰義隊を討ち果たそうという考えはなかったように思われます。

それは、勝海舟との信頼関係もありましたし、西郷隆盛や海江田信義には彰義隊は強いという認識があったからです。

しかし、この考えを一刀両断で切り捨てたのが長州の大村益次郎です。大村益次郎は彰義隊を烏合の衆と決めつけて、今後のために殲滅すべきと主張します。

大村益次郎と海江田信義の間で大激論が交わされたと言われていますが、結果は大村益次郎の主張が認められて彰義隊を討つことが決定します。

また、このときに海江田信義は、大村益次郎に「君は戦を知らぬ」と批判され、大いに自尊心を傷つけられたとも言われています。

大村益次郎は、上野戦争で彰義隊をたった1日で殲滅させます。

海江田信義は議論で負けたうえに馬鹿にされ、さらには自らが強いと吹聴していた彰義隊を1日で壊滅させた大村益次郎に強い遺恨を持ったと言われています。

また上野戦争に関しては、一番の激戦が予想される黒門口攻撃を薩摩藩が担当させられたというのもありました。

この布陣を考えたのも大村益次郎。

大村益次郎は合理主義的な人物で、最も強い部隊を最も激戦が予想される場所に置くということを考えただけですが、激情に駆られた海江田信義はこのことにも大きな怒りを見せています。

ところで、大村益次郎は1869年に大阪で暗殺されます。

大村益次郎を暗殺したのは長州藩の神代直人など8人で、海江田信義は直接に関与していません。

しかし、何らかの形で海江田信義が関与していたのではないかという疑いは今でもあるようです。

何れにしても、海江田信義の評価は決して高いものではありません。

それは海江田信義自身の能力による部分も大きいのでしょうが、それ以上に大村益次郎の存在が海江田信義の評価を大きく下げてしまったと言えそうです。

さいごに

上野戦争の舞台となった不忍池不忍池

この記事では、海江田信義(有村俊斎)の幕末維新。

そして、海江田信義(有村俊斎)の評価を大村益次郎との関わり合いを通じて、ご紹介をしてきました。

前述のとおり、海江田信義(有村俊斎)は幕末維新を生き抜きました。それに対して、海江田信義(有村俊斎)の弟2人は明治維新を見ることなく亡くなっています。

海江田信義(有村俊斎)の弟である有村次左衛門と有村雄助は若くして亡くなっているだけに、評価が確立しているわけではありません。

それでも有村三兄弟を評して「愚兄賢弟」と言われることがあります。

また、大久保利通は海江田信義(有村俊斎)への書簡で、海江田信義(有村俊斎)のことを、忍耐をする力が不足していることと、度量が狭いことを忠告しています。

海江田信義(有村俊斎)は明治維新になっても新政府の中でそれなりの地位を築いています。

しかし、明治政府は薩摩藩と長州藩の出身者が大部分を占めている状態。しかも薩摩藩も長州藩も明治維新を迎えるまでに、有能な志士を数多く失っています。

言い換えれば、明治新政府は人材が払底していたと考える事もできます。

海江田信義(有村俊斎)は人材が払底しているからこそ、明治政府の中で生きて行けた。このような酷評も聞こえてきます。

残念ながら海江田信義(有村俊斎)を評価する声はあまり聞こえてはきません。果たして、海江田信義(有村俊斎)はどのような人物だったのでしょうか。

 

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