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藤原定子と清少納言
この記事では、藤原定子と藤原定子に仕えた清少納言、それぞれのの生涯とともに二人の関係をわかりやすくお伝えします。藤原定子は、一条天皇の中宮となった女性。
清少納言は随筆「枕草子」で著名な人物ですが、藤原定子と清少納言はどのような経緯で関わり合いを持つようになったのでしょうか。
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藤原定子の生涯
まずは藤原定子の生涯を表形式でお伝えします。藤原定子(ふじわらのていし又はふじわらのさだこ)
977年 | 藤原道隆の長女として生まれる |
990年 | 一条天皇(980年~1011年)の女御となり次いで中宮(皇后)となる 藤原道隆が摂政になる |
995年 | 藤原道隆が亡くなる |
996年 | 宮中を退出し落飾する |
997年 | 第一皇女 脩子内親王(しゅうしないしんのう、997年~1049年)を出産 |
998年 | 宮中に戻る |
999年 | 第一皇子 敦康親王(あつやすしんのう、999年~1019年)を出産 |
1000年 | 藤原彰子が中宮になったため皇后宮となる |
1001年 | 第二皇女 媄子内親王(びしないしんのう、1001年~1008年)出産後死去 |
藤原道隆は権力を維持するために、長女の藤原定子を宮中に送り込み中宮(皇后)とします。
しかし、995年に藤原道隆は病死。
藤原道隆の死とともに、藤原定子の立場も不安定になります。
藤原道隆の後を継いだのは、藤原道隆の弟の藤原道兼ですが、藤原道兼もすぐに亡くなります。
そして起こったのが、藤原道隆の子で藤原定子の兄・藤原伊周(ふじわらのこれちか、974年~1010年)と、藤原道隆・藤原道兼の弟・藤原道長(ふじわらのみちなが、966年~1028年)の後継者争いです。
996年、結果は藤原道長の勝利に終わり、藤原伊周は左遷の命を受けます。
また、藤原定子も宮中を退出し落飾します。
998年になると藤原伊周は罪を赦され、藤原定子も宮中に戻り、999年には第一皇子・敦康親王が誕生します。
1000年、絶大な権力を握っていた藤原道長の娘藤原彰子が新たな中宮になります。
そのため、それまで中宮であった藤原定子は皇后宮と号されるようになります。
そして1001年、第二皇女・媄子内親王が誕生しますが、その直後に生涯を閉じています。
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清少納言の生涯
966年頃 | 誕生、父は清原元輔 |
981年 | 橘則光と結婚 |
982年 | 橘則長を出産 |
991年 | 橘則光と離婚 |
993年 | 中宮藤原定子に女房として仕える |
1001年 | 藤原定子死去に伴い宮中を退出 |
不詳 | 藤原棟世と再婚・小馬命婦を出産 |
1001年頃 | 枕草子を書き上げる |
1025年頃 | 死去 |
まず、生没年がはっきりとしません。
生年については、最初に結婚した965年生まれの橘則光より、一歳年下であったことから966年。
没年については、清少納言の兄弟の没年から1025年とも言われていますが、何れも確定しているわけではないようです。
また、再婚の時期もはっきりとしていませんし、晩年は不遇の生活を送っていたとも伝えられていますが、こちらについても定かではありません。
ミステリアスな部分が多いのが、清少納言の生涯です。
清少納言が藤原定子に仕えた理由
日本では奈良時代以前から平安時代中期まで、妻問婚(つまどいこん)という婚姻形態が行われていました。妻問婚は夫婦が一緒に生活するのではなく、夫が妻の元を訪ねるというものです。
また、当時の上流階級では一夫多妻も行われていました。
公家であれば家の外に出て妻問婚も可能でしたが、天皇家ではそうは行きません。
そこで設けられたのが後宮(こうきゅう)で、後宮には複数の局(つぼね)があり、そこには中宮(皇后)だけでなく、女御(にょご)や更衣(こうい)もいました。
※ 女御や更衣は後宮における身分で、立場上は女御が上になります。女御も更衣も天皇の寝所に侍することができる高位の女性とされていました。
天皇がどの局を訪ねるのかは自由です。
そこで、中宮を始めとする女性たちは、自らを魅力的にするだけでなく、局そのもの価値を高めていく必要がありました。
そこで女性たちは、個人的に女房を雇うことになります。
たとえば、和歌に堪能な女房、琴が上手な女房。こうした才能ある女房が多ければ、局の価値も高まります。
なお、女房は私的な使用人で、公費で仕える女官とは異なります。そして女房を雇う経費は主に実家が負担します。
藤原定子の父は、権力も財力もあった藤原道隆。
藤原定子はそうした力を背景に、能力ある女房を雇っていて、その中の一人が清少納言です。
藤原定子と清少納言の関係
清少納言の父清原元輔は歌人として著名な人物で、清少納言が藤原定子に仕えたのも、そのあたりが理由だったのかもしれません。もっとも、清少納言自身も才気煥発で、主の藤原定子に重用されていたようです。
清少納言は藤原道長を贔屓していたと伝えられています。
藤原道長は、藤原定子の父藤原道隆の弟で、藤原定子にとっては叔父にあたります。
しかし、当時の藤原家は権力闘争が激しく、藤原定子の兄藤原伊周は政争で藤原道長に敗れています。
藤原定子にとって藤原道長は決して親しむべき相手ではありませんが、清少納言は藤原道長の能力を高く評価していたと言われています。
そうしたこともあって清少納言は周囲の讒言を受け、一時、藤原定子の元を離れています。
もっとも経緯は分からないものの、清少納言は藤原定子の元に戻り、藤原定子もこれを受け入れたとされています。
また、清少納言は藤原定子に仕え始めてから、枕草子の執筆にとりかかったとされていますが、その中で藤原定子のことを絶賛しています。
清少納言は藤原定子の女房で、形式上は主従の関係です。
しかし清少納言が仕えるようになったのは、藤原定子が15歳~16歳の頃。実際には家庭教師のような役割を果たすことも多かったのではないでしょうか。
まとめ
この記事では、藤原定子と清少納言の生涯とともに、二人の関係をわかりやすくお伝えしました。藤原定子の死により、清少納言も宮中を退出します。
その後、藤原道長より藤原彰子の女房として仕えるようにという話もあったようですが断ります。
そして、清少納言の娘小馬命婦(こまのみょうぶ、生没年不詳)が、藤原彰子に仕えたと言われています。
藤原定子は、その生涯がある程度は分かっています。
一方、清少納言は枕草子が有名であるものの、生没年を含めわからないことが多いようです。
清少納言ではっきりとしているのは、藤原定子に仕えた約7年間。
また、枕草子にもこの頃のことが賛美して書かれていることを考えると、この時期が清少納言にとってもっとも輝いていたのかもしれないですね。
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