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この記事では鳥羽伏見の戦いを、戦いの前・戦い・戦いの後と時系列でわかりやすくお伝えしていきます。
鳥羽伏見の戦いの結末は予想外。錦の御旗を含め、ふとした準備の差が勝敗を分けたようです。
鳥羽伏見の戦いが始まるまで
まずは、鳥羽伏見の戦いが始まるまでの経緯をお伝えします。江戸幕府の末期、いわゆる「幕末」はいろいろな思想が錯綜をしていました。たとえば、佐幕や尊皇、攘夷や開国。
江戸幕府は統治者であっても、現実には300を超える藩があり、藩ごとにこうした思想が入り混じっていました。
幕末がわかりにくいと言われるのは、思想が複雑に絡み合っていて、それが政治に大きな影響を与えたことにあります。
もっとも幕末も末期になると、思想が大きく2つにまとまり、わかりやすくなっていきます。
それは、幕府を残すのか、あるいは幕府を倒すのかです。
幕府を残す側の代表をあげると、当事者である幕府・会津藩・桑名藩。
一方、幕府を倒すという意見の急先鋒は薩摩藩と長州藩です。
この対立の構図がはっきりとしたのは第2次長州征伐(1866年)。長州征伐は、幕府に反目する長州藩に対して幕府が仕掛けたものです。
第2次長州征伐の前に行われた第1次長州征伐(1864年)は、薩摩藩が幕府側についたことで幕府の勝利に終わります。
しかし、長州藩が相変わらず幕府に敵対の意思を持ち続けたため、第2次長州征伐が始まります。
ただ、第2次長州征伐の時は、すでに薩摩藩と長州藩は薩長同盟を締結していました。
第1次長州征伐では幕府の側に立っていた薩摩藩も、幕府を見限り長州藩と軍事同盟を結んでいました。
そのため、第2次長州征伐は大失敗に終わり、幕府はどんどんと勢いを弱めていきます。
そして、幕府側と薩摩・長州などの討幕派は、同日にある出来事を引き起こします。
その日付は慶応3年10月14日(1867年11月9日)の「大政奉還」と「討幕の密勅」です。
大政奉還は、幕府が政権を朝廷に返すことを奏上したもの。
一方、討幕の密勅は薩摩藩と長州藩が朝廷の岩倉具視などに働きかけ、朝廷に幕府を倒す許可を受けたものです。
大政奉還も討幕の密勅も、何れも形式上は朝廷が関与していますが、現実には政権を返すと願い出た幕府を、わざわざ武力で倒す必要もなくなったため、討幕の密勅は大きな効果を見いだせないという結果に終わります。
しかし、これでは薩摩藩と長州藩の討幕という目標が達成できなくなります。
また、大政奉還をしても実質的な権力を幕府が握り続けていたとしたら、反幕府の姿勢を鮮明にしていた薩摩藩や長州藩の立場も危うくなります。
そこで次にとった策が、慶応3年12月9日(1863年1月3日)の「王政復古」です。
王政復古は薩摩藩や長州藩側が、幕府の廃絶と新しい政府の樹立を宣言したものです。王政復古は新政府樹立宣言という大きなものでしたが、所詮は政治的駆け引き。
幕府側は一応はそれに従う態度は見せたものの動きは遅く、薩摩藩や長州藩を苛立たせるものでした。
この段階において薩摩藩と長州藩。特に薩摩藩の西郷隆盛は、政治的な駆け引きよりも武力行使を考えるようになります。
そこで薩摩藩がとったのは、幕府のおひざ元である江戸の町のかく乱。薩摩藩は江戸において幕府を挑発するようにさまざまな破壊活動を行い、江戸の町を混乱に陥れます。
薩摩藩の行動に対して幕府は怒り、江戸の町を守っていた庄内藩などにより江戸の薩摩藩邸は焼き討ちされます。
もっとも、この扇動は薩摩藩の策略のうち。
江戸の薩摩藩の動きや薩摩藩邸焼き討ちの報が、大坂にいた幕府軍に伝わると幕府側の考えも一変。
徳川慶喜は「倒薩表」を発するとともに、幕府軍に大坂から京都に向けての進発を命じます。
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鳥羽伏見の戦い
次に、鳥羽伏見の戦いの経緯をわかりやすく簡単にお伝えします。
慶応4年1月2日(1868年1月26日)、幕府軍は淀・伏見方面から鳥羽街道を北上して京都入りを目指します。
また、幕府軍に近かった会津藩・桑名藩・新選組は伏見市街に陣を敷きます。
一方、薩摩藩や長州藩を中心に構成された新政府軍は幕府軍の北上に備えて陣を敷きます。
両軍が激突をしたのは慶応4年1月3日(1868年1月27日)の夕刻。
京都入りを目指すため北上する幕府軍と新政府軍が接触。新政府軍の発砲をきっかけとして戦いが始まります。
幕府側の戦力は15,000人、対する新政府軍は5,000人。
人員だけを考えると幕府軍が圧倒的に有利なはずでしたが、戦闘が狭い場所で行われることが多く幕府軍が効率的な兵の展開をすることができなかったこと、薩摩藩が効果的に大砲を使用したこと。
さらには、慶応4年1月4日(1868年1月28日)になると、それまで中立的な立場をとっていた土佐藩が新政府軍に加わったことで、徐々に幕府軍は追い詰められていきます。
そして、鳥羽伏見の戦いの趨勢を決定づけたのが「錦の御旗(にしきのみはた)」の登場です。
朝廷より新政府軍に錦の御旗が与えられたことで、新政府軍は官軍・幕府軍は賊軍と、それぞれの立場がよりわかりやすくなりました。
当時の江戸幕府の将軍である徳川慶喜は、元々は水戸藩主徳川斉昭の子供です。
水戸徳川家は徳川御三家の一つですが、勤皇に篤い家とされてきました。水戸家に育った徳川慶喜にとって、自らが朝廷に逆らい賊軍になるのは耐えられないことでした。
戦況は幕府軍に不利でしたが、加えて幕府軍の最高権力者である将軍である徳川慶喜が戦意を失ったことで、形勢は一気に新政府軍に傾き、慶応4年1月6日(1868年1月30日)に鳥羽伏見の戦いは終結します。
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鳥羽伏見の戦いが終わってから
最後に、鳥羽伏見の戦いが終わってからをお伝えします。慶応4年1月6日(1868年1月30日)の夜、大坂城にいた徳川慶喜は、会津藩主の松平容保や桑名藩主の松平定敬など数名を引き連れて、幕府の軍艦開陽丸に乗り大坂から江戸へ戻ってしまいます。
鳥羽伏見の戦いは、わかりやすくいえば旧政権を新政権が倒した革命です。しかし、革命でありながらも、旧政権の代表者である徳川慶喜は、けが一つ負うことなく江戸にいます。
また、江戸幕府は約260年も続いており、薩摩藩や長州藩など一部の藩を除いては、現状をきちんと把握することが困難でもありました。
言い換えると、鳥羽伏見の戦いは終わりではなく、あくまでも始まり。
鳥羽伏見の戦いから、引き続き起こった江戸の上野戦争、越後や東北地方で数多くの戦いが起こった北越戦争、新政府から目の敵にされた会津藩の元で起こった会津戦争、さらには函館の五稜郭を舞台にした函館戦争。
こうした一連の戦いを戦いが始まった年が戊辰の年であったことから「戊辰戦争」と称していますが、鳥羽伏見の戦いは戊辰戦争の始まりの戦いと言えます。
※ 戊辰は、現在の西暦を60で割り8余った年が該当します。1868年÷60=31あまり8
まとめ
この記事では、鳥羽伏見の戦いをわかりやすくお伝えしてきました。
鳥羽伏見の戦いは人数だけで見たら幕府軍が有利なはずだったのに、結果は新政府軍の圧倒的勝利に終わっています、
そうした結果になった理由は、なんといっても準備の差にありました。
具体的には新政府軍は大砲などの火器で幕府軍を圧倒していました。
たとえば、鳥羽伏見の戦いに参加した新選組の土方歳三は鳥羽伏見の戦い終結後「剣も槍も使い道がなかった」と嘆息しています。
戦いは人数で行うものではなく、装備で行うものであることを鳥羽伏見の戦いは如実に示しており、ずっと前から洋式軍備に熱心であった薩摩藩や長州藩は圧倒的に有利な立場にいました。
また、戦局を決定づけたのは、紛れもなく「錦の御旗(錦旗ーきんきと称する場合もあります)」。
錦の御旗は歴史上存在したものであることは知られていました。ただ、錦の御旗を見た者はなく、作り方などの記録も残ってはいませんでした。
戦場に錦の御旗を出そうと考えたのは、公家の岩倉具視であるといわれています。岩倉具視は幕末のいろいろな策謀の中で登場することが多い人物ですが、錦の御旗もその一つ。
錦の御旗そのものは相手の肉体にダメージを与える武具にはなり得ないものですが、一方、精神には致命的なダメージを与えることができる。
岩倉具視自身にそこまでの成算があったかどうかは分かりませんが、結果的には大成功。
錦の御旗が登場しなくても鳥羽伏見の戦いは新政府軍の勝利に終わった可能性は高いと思いますが、錦の御旗の登場で鳥羽伏見の戦いが短期間で終結したのは確かではないでしょうか。
相手の肉体にダメージを与える武器だけではなく、精神にダメージを与える錦の御旗さえ用意していた。
鳥羽伏見の戦いは、錦の御旗などふとしたことがいくつも重なり新政府軍の勝利に終わったといえそうです。
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