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この記事では、将軍継嗣問題で対立をした一橋派(ひとつばしは)と南紀派(なんきは)について簡単にお伝えをしていきます。
まずは、将軍継嗣問題の端緒となった徳川家定について、ご案内をしていきます。
目次
徳川家定(とくがわいえさだ)とは
徳川家定は、1824年に生まれ、1858年に亡くなります。父は江戸幕府第12代将軍徳川家慶(とくがわいえよし、1793年~1853年)。徳川家慶には14人の男子と13人の女子、合わせて27人の子がいました。徳川家定は徳川家慶の第4男。本来は将軍になれる立場ではありませんでした。
しかし、27人の子のうち成人をしたのは徳川家定のみ。必然的に徳川家定は第13代将軍の座に収まります。
しかし、成人できたとはいえ徳川家定は生来の病弱。
徳川家定が将軍になったのは父の徳川家慶が亡くなった1853年のことで、将軍就任後はさらに体調を崩してしまったといわれています。
徳川家定は、政務を執る能力も、後継者を作る能力もなく、さらにはいつまで生きていられるのかさえ危ぶまれる状況でした。
幕府としては徳川家定が将軍になると同時に、次の将軍を探しておかなければいけない状況です。
そこで登場したのが、徳川慶福(後の徳川家茂)と一橋慶喜(後の徳川慶喜)です。
それでは、次に将軍継嗣問題が起きるまでの徳川慶福と一橋慶喜について簡単にご紹介をしていきます。
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徳川慶福・一橋慶喜とは
徳川慶福(とくがわよしとみ)とは
徳川慶福(1846年~1866年)は、第12代将軍徳川家慶の異母弟である徳川斉順(とくがわなりゆき、1801年~1846年)の子。つまり、徳川家慶から見たら甥にあたる人物で、徳川家定と徳川慶福は従兄弟の関係でもあります。
父の徳川斉順は御三家の一つである紀州藩の第11代藩主です。しかし、徳川斉順が亡くなったとき、徳川慶福はまだ生まれてはいません。
そのため紀州藩の第12代藩主となったのは徳川斉順の弟である徳川斉彊(とくがわなりかつ、1820年~1849年)です。
その後、徳川斉彊も亡くなったため徳川慶福は叔父の徳川斉彊の養子となり、僅か4歳で紀州藩の第13代藩主となります。
一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)とは
一橋慶喜(1837年~1913年)は、御三家の一つである水戸藩第9代藩主徳川斉昭(とくがわなりあき、1800年~1860年)の第7男です。水戸藩の第10代藩主となったのは兄の徳川慶篤(とくがわよしあつ、1832年~1868年)で、一橋慶喜自身は1847年に御三卿の一つである一橋家に養子に入っています。
一橋慶喜は元々は徳川御三家の一つである水戸藩の出身です。しかしながら将軍家とは、江戸幕府を創始した徳川家康までさかのぼらなければ血のつながりはない状況。
徳川慶福と比べると血縁関係は相当に離れていました。
一橋慶喜が一橋家に養子に入ったのは第12代将軍徳川家慶の意向によるものといわれています。
前述のように徳川家定の状況は父である徳川家慶も危惧をしていました。
そのため幼少のころから聡明さが知られていた一橋慶喜を御三家よりも近い御三卿に入れて置き、徳川家定を廃して一橋慶喜を後継の将軍にしようと画策していたといわれています。
しかし正式な後継者がいるのに、他所から将軍を持ってくるのは無理な話。老中阿部正弘などの反対もあり、一橋慶喜を第13代将軍にすることを断念したと伝えられています。
一橋慶喜は第14代将軍の候補者であったばかりではなく、その前の13代将軍の候補であったことはあまり知られてはいないようです。
御三家(ごさんけ)とは
徳川御三家は、徳川将軍家に後継者がいない場合に備えて創設されたもので、一般的には尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家をさしています。ただし、将軍を送り出すことができるのは尾張徳川家と紀州徳川家であり、水戸徳川家にはその権利は与えられていませんでした。
★ 尾張徳川家 ⇒ 徳川家康の第9男である徳川義直を祖とする
★ 紀州徳川家 ⇒ 徳川家康の第10男である徳川頼宣を祖とする
★ 水戸徳川家 ⇒ 徳川家康の第11男である徳川頼房を祖とする
御三卿(ごさんきょう)とは
徳川御三家は徳川将軍家のスペアのような立場でしたが、代を重ねるにつれ将軍家との血のつながりも弱くなります。そこで設けられたのが御三卿で御三卿も尾張徳川家や紀州徳川家と同じように将軍を送り出せる立場となります。
★ 田安家 ⇒ 8代将軍徳川吉宗の次男である徳川宗武を祖とする
★ 一橋家 ⇒ 8代将軍徳川吉宗の四男である徳川宗尹を祖とする
★ 清水家 ⇒ 9代将軍徳川家重の次男である徳川重好を祖とする
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一橋派・南紀派とは
それでは、一橋派と南紀派の構成メンバーなどについてお伝えをしていきます。一橋派とは
第14代将軍に一橋慶喜を推そうとしたグループが、いわゆる一橋派です。それでは一橋派のメンバーをご紹介していきます。★ 徳川斉昭 (とくがわなりあき、1800年~1860年) ⇒ 水戸藩前藩主(第9代)であり一橋慶喜の実父。
★ 徳川慶篤(とくがわよしあつ、1832年~1868年)⇒ 水戸藩第10代藩主であり一橋慶喜の兄。
★ 松平慶永(まつだいらよしなが、1828年~1890年) ⇒ 越前福井藩主。幕末四賢侯の一人。松平春嶽(まつだいらしゅんがく)の名でも知られる。
★ 徳川慶勝(とくがわよしかつ、1824年~1883年) ⇒ 尾張徳川家藩主。
★ 島津斉彬(しまづなりあきら、1809年~1858年) ⇒ 薩摩藩主。幕末四賢侯の一人。
★ 伊達宗城(だてむねなり、1818年~1892年) ⇒ 伊予宇和島藩主。幕末四賢侯の一人。
★ 山内豊信(やまのうちとよのぶ、1827年~1872年) ⇒ 土佐藩主。幕末四賢侯の一人。山内容堂(やまのうちようどう)の名でも知られる。
※ 幕末四賢侯(ばくまつしけんこう)とは、幕末に幕府の政治に積極的に介入をした4人の大名の総称。
南紀派とは
第14代将軍に徳川慶福を推そうとしたしたグループが、いわゆる南紀派です。それでは南紀派のメンバーをご紹介していきます。★ 井伊直弼(いいなおすけ、1815年~1860年) ⇒ 近江彦根藩主。
★ 松平容保(まつだいらかたもり、1836年~1893年) ⇒ 会津藩主。
★ 松平頼胤(まつだいらよりたね、1811年~1877年) ⇒ 讃岐高松藩主。
★ 松平忠固(まつだいらただかた、1812年~1859年) ⇒ 信濃上田藩主。
★ 水野忠央(みずのただなか、1814年~1865年) ⇒ 紀州藩附家老。
一橋派と南紀派の特徴
一橋派と南紀派にはそれぞれに特徴がありました。一橋派の大きな特徴は、譜代大名だけでなく島津斉彬などそれまでは幕政に関与できない外様大名もいたことです。
これは時の老中首座であった阿部正弘によるところが大きかったと考えられています。
阿部正弘が行ったのは積極的な人材登用。そのため、外様ではあっても有能な大名が積極的に意見を述べられるようになっています。
また、一橋派が推したのは一橋慶喜。
一橋慶喜は御三卿の一つである一橋家の当主であったとはいえ、本来は将軍の座には就けないとされた水戸徳川家の出身。
また、将軍家との血のつながりも薄い人物でした。
一橋派が一橋慶喜を推したのは何よりも能力。南紀派の推す徳川慶福は血筋こそ申し分ないものの当時は少年。難局を乗り越えられるのは血筋ではなく能力。
阿部正弘は有能な大名の登用を積極的に図りましたが、将軍も有能な人物を推そうとしていました。
一方の南紀派は譜代大名が中心。さらには何よりも血統を重視するという考えがありました。
そのため、能力や年齢ではなく徳川家定に血統的に一番近い人物である徳川慶福を推しています。
一橋派VS南紀派 将軍継嗣問題の経緯
では、一橋派と南紀派の対立。すなわち、将軍継嗣問題の経緯を簡単に時系列で紹介をしていきます。
1845年 | 阿部正弘が老中首座になる |
1853年 | 徳川家定が第13代将軍に就く |
1856年 | 島津斉彬の養女篤姫が徳川家定の正室になる |
1857年 | 阿部正弘死去 |
1858年4月 | 井伊直弼が大老になる |
1858年6月 | 徳川家定により後継を徳川慶福とすることが決定される |
1858年7月 | 島津斉彬死去 |
1858年8月 | 徳川家定により一橋派の処分が発表される |
1858年8月 | 徳川家定死去 |
しかし、実際は一橋派が将軍継嗣問題に勝利することはありませんでした。
その理由としては、
★ 一橋慶喜の父である徳川斉昭は大奥に嫌われていて、一橋慶喜も人気がなかった。
★ 徳川家定自身も一橋慶喜を嫌っていた。
一橋派は、一橋慶喜を次の将軍に決めて将軍継嗣問題に決着をつけるつもりでした。しかし手間取っているうちに、肝心の阿部正弘や島津斉彬が死去。
さらに、南紀派の阿部正弘の後に幕政を担ったのは、南紀派の代表である井伊直弼。井伊直弼は、将軍継嗣問題に決着をつけるとともに、反対派の一橋派の粛正に乗り出します。
井伊直弼のその後
徳川家定が亡くなり、次の将軍に南紀派が推した徳川慶福(将軍就任とともに徳川家茂と改名)が将軍の座に収まるとともに、井伊直弼の圧政が始まります。徳川斉昭・徳川慶篤・徳川慶勝・松平慶永、さらには一橋慶喜に対して隠居謹慎を命じて幕政から遠ざけます。
また、この処分を契機として井伊直弼の施策に反対する全国の武士たちへの粛正。いわゆる安政の大獄が引き起こされます。
このように一橋派に対して圧倒的な勝利を収めた井伊直弼ですが、1860年には水戸藩士や薩摩藩士などに襲撃され最期を迎えています。(桜田門外の変)
さいごに
一橋派と南紀派の対立は南紀派の勝利。南紀派の推した徳川慶福が第14代将軍に就き、一橋派は粛正をされます。
もっとも、南紀派の中心人物だった井伊直弼は桜田門外の変で1860年に死去。さらには、14代将軍徳川家茂も1866年に僅か20歳で病死をします。
そして、その後に将軍に就いたのが一橋慶喜(徳川慶喜)。ようやく旧一橋派の推す人物が将軍になったものの、徳川慶喜が将軍の座にあったのはわずかに1年。
1867年には大政奉還をして政権を朝廷に返上。徳川慶喜は江戸幕府最後の将軍となります。
一橋派と南紀派の将軍継嗣問題の対立は南紀派の勝利で終わります。それは一橋派の中心であった阿部正弘や島津斉彬が急死をしたためです。
この2人が存命であったならば一橋派と南紀派の対立の結果もどうなっていたかは分かりませんし、その後の日本の歴史も違っていたのかもしれないですね。
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