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橋本左内と西郷隆盛の関係を簡単に時系列でお伝えします!

橋本左内がいた越前福井城
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この記事では、橋本左内と西郷隆盛の関係について簡単にお伝えします。

橋本左内が生まれたのは1834年。一方、西郷隆盛は1828年。

西郷隆盛の方が橋本左内より約6歳の年長であったようですが、果たして2人の関係はどのようなものだったのでしょうか。

橋本左内と西郷隆盛が出会うまで

橋本左内は越前福井藩に仕えていた医師の長男として生まれています。

橋本左内の青年期のエピソードとしては15歳の時の『啓発録』が知られています。 啓発録は簡単に言えば自らの志を記したもので、このころから英明さを発揮していたようです。

1849年、橋本左内16歳のころ、大坂の緒方洪庵が主催の適塾に入り蘭学の勉強を始めます。

この適塾で医学の勉強をしているときに、横井小楠(よこいしょうなん)や梅田雲浜(うめだうんびん)と出会い、このことが後に国事行動に奔走する橋本左内の原型を作ったともいわれています。

さて、この当時の越前福井藩主は松平慶永(まつだいらよしなが、1828年~1890年、後の松平春嶽)です。

松平慶永は幕末四賢侯の一人として著名な人物で当時から英邁さがうたわれていました。

松平慶永がまず手を付けたのが藩政改革。その過程で橋本左内は福井藩の士分に取り立てられています。

橋本左内が士分に取り立てられたのは1855年。その年の11月には早くも江戸出府を命じられています。そして、江戸で初めて西郷隆盛と出会うことになります。

では、出会った時の橋本左内は西郷隆盛をどのように思ったのでしょうか。

橋本左内は西郷隆盛を評して、「時世を憂いている血気盛んな者」というようなことを語っています。

西郷隆盛の方が年長ですが、適塾で学んだ橋本左内と薩摩の下級武士として幼少期を過ごした西郷隆盛とでは学識も経験も雲泥の差。

出会いの時の橋本左内と西郷隆盛の関係は、橋本左内の方が時世の認識という点では、はるかに上だったのかもしれません。

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将軍継嗣問題

橋本左内が学んだ適塾適塾

橋本左内と西郷隆盛の関係が最も密接になったのが将軍継嗣問題です。

当時の江戸幕府の将軍は第13代徳川家定ですが、徳川家定は病弱で政務を執る能力もない人物と考えられていました。

第12代将軍徳川家慶も実子の徳川家定を後継とすることに躊躇を覚えたようですが、結果的には徳川家定が将軍職に就いています。

もっとも、徳川家定が将軍になったころからすでに後継者選びが進められていましたが、意見の相違から一橋派と南紀派の2つに分かれて後継者選びがし烈化していました。

一橋派とは第14代将軍に一橋慶喜を推す一派で、代表的な人物としては薩摩藩主の島津斉彬や福井藩主の松平慶永などがいました。

一方の南紀派は、第14代将軍に徳川慶福を推す一派で代表的な人物としては、彦根藩主の井伊直弼がいます。

橋本左内は松平慶永の家臣。西郷隆盛は島津斉彬の家臣です。

それぞれの主君は同じ志を持ち活動。そして、松平慶永や島津斉彬の意向を受け活動をしたのが西郷隆盛であり橋本左内でした。

一橋派と南紀派の対立は、一時期、一橋派がリードをします。

しかし、井伊直弼が幕府の大老になり、結果的には南紀派が勝利。

徳川慶福が第14代将軍となり徳川家茂と改名。一橋派と南紀派の対立は南紀派の勝利で終わります。

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橋本左内の最期

井伊直弼が大老に就任したのが1858年4月。徳川家定が亡くなったのは同年8月。徳川慶福が第14代将軍に就いたのは同年12月。

1858年は激動の年ですが、この年は一橋派の大名にも大きな変化が訪れています。

まず、橋本左内の主君である松平慶永に対しては1858年7月に隠居謹慎の処分が下されます。もちろん、大老井伊直弼の意向によるものです。

また、西郷隆盛の主君である島津斉彬が1858年8月に薩摩で亡くなっています。病死と伝えられてはいますが、一説には毒殺という噂もあります

そして、井伊直弼の名前をとりわけ有名にした事件が起こります。

それが1858年から1859年にかけて行われた安政の大獄です。

安政の大獄の中心人物は井伊直弼。井伊直弼は自らに反対する全国の武士などの弾圧に乗り出します。

安政の大獄では7名が死罪に処せられています。

その7名の中にいたのが橋本左内。

橋本左内は吉田松陰(よしだしょういん)や頼三樹三郎(らいみきさぶろう)などとともに井伊直弼の弾圧によりその生涯を閉じています。

橋本左内の罪状は将軍継嗣問題で井伊直弼に敵対をしたこと。つまり井伊直弼から見た橋本左内は幕政批判をした人物と映っていました。

井伊直弼に本当に敵対をしたのは松平慶永。しかし井伊直弼といえども松平慶永に対しては隠居謹慎以上の処分はできませんでした。

そこで松平慶永の指示に従って活動した橋本左内を死罪に処したともいわれています。

その才能を大いに評価された橋本左内も1859年11月に斬首によりその生涯を閉じています。(享年26)。

橋本左内の死により、橋本左内と西郷隆盛の関係は終わっています。では、このとき西郷隆盛はどうしていたのでしょうか。

島津斉彬の死と井伊直弼の弾圧により西郷隆盛の身にも危険が迫っていました。そこで薩摩藩は西郷隆盛をかくまうために改名させたうえで奄美大島に潜ませています。

橋本左内は井伊直弼によりその生涯を閉じていますが、西郷隆盛は政治の場からは離れるもののその命を永らえることができています。

西郷隆盛が橋本左内の死を知ったのは奄美大島。西郷隆盛は橋本左内の死をことのほか悲しんだと伝えられています。

さいごに 西郷隆盛の最期

橋本左内がいた越前福井城福井城

安政の大獄を逃れた西郷隆盛はその後も活動を続け、大久保利通や木戸孝允とともに明治維新三傑の一人に数えられるほどになります。

しかし、明治政府の中ではむしろ鬱屈することも多く、最終的には西南戦争の中心人物と目され、1878年には城山の地でその生涯を閉じています。

ところで死後、西郷隆盛の荷物を調べていたところ、その中に一通の書状が発見されています。

その書状とは将軍継嗣問題について橋本左内から西郷隆盛へ送られたもの。

西郷隆盛は橋本左内のことを同世代の人物の中では特に推していたと伝えられていますが、橋本左内が亡くなってもずっと橋本左内からの書状を大切に残していました。

西郷隆盛が親しかった人物としては大久保利通などがとりわけ有名です。

しかし、接している時間は短かったとはいえ、橋本左内と西郷隆盛の関係も同志という意味でとても親密なものであったようにも思われます。

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