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この記事では、江戸幕府の第13代将軍徳川家定(とくがわいえさだ)の生涯を、エピソードを入れながらご紹介します。
まずは、徳川家定の略歴を簡単にご紹介していきます。
1824年 第12代将軍徳川家慶(とくがわいえよし)の4男として生まれる
1853年 第12代将軍徳川家慶の死とともに第13代将軍となる
1856年 篤姫を正室に迎える
1858年 死去(享年34)
それでは、徳川家定の生涯をエピソードを入れながら時系列でご紹介をしていきます。
徳川家定の生涯1 生まれてから将軍になるまで
エピソード1
★ 徳川家定は12代将軍徳川家慶の唯一の後継者だった
★ 徳川家定は人前に出ることがとても嫌いだった
★ 徳川家定は病弱だった
★ 父の徳川家慶は徳川慶喜を次の将軍にしたいと考えていた
徳川家定は第12代将軍徳川家慶の第4男として生まれています。 普通に考えれば第4男の徳川家定に将軍の座が巡ってくることはありませんでした。
ところが、徳川家慶の子のうち成人に達したのは徳川家定のみ。徳川家慶には男子14人、女子13人の子がいましたが、徳川家定以外はすべて成人前に亡くなっています。
徳川家慶の血統を保てるのは徳川家定だけという状況でした。
では、徳川家定はすんなりと将軍になることができたのでしょうか。どうやらそうではなかったようです。
徳川家定については、さまざまなエピソードが伝えられています。
そのすべてが真実かどうかは別にして、残念ながら好ましいエピソードはあまり伝えられてはいないようです。
まず、徳川家定は人前にでることをとても嫌がっていたと伝えられています。人前に出たがらないことについての理由は定かではありません。
ただ徳川家定は亡くなるまで病弱であったというのが通説になっています。もしかしたら健康状態が人嫌いの原因だったのかもしれません。
また、徳川家定は幼い頃に天然痘を患い顔にあざが残ったとも言われていて、これが人前に出ることを嫌がるようになったという説も生んでいます。
さらに、徳川家定は脳性まひで様々な症状が出ていたとも言われています。
将軍と言えば武家の棟梁たる立場。武家の棟梁が病弱というわけにもいかないので、詳しい情報はわかってはいないものの、通常の生活を送るのは難しかったのかもしれません。
当然、そのことは父である徳川家慶にとっても悩みの種になります。実子で残っているのは徳川家定のみ。しかし、その子は将軍としての務めを果たすことが難しい。
そんな状況において徳川家慶が考えたのは、徳川慶喜(とくがわよしのぶ、後の第15代将軍)を後継にすることでした。
徳川慶喜は、徳川家慶の正室(喬子女王 たかこじょおう)の妹である吉子女王(よしこじょおう)の子。簡単に言えば、徳川家慶にとって徳川慶喜は甥ということになります。
また、徳川慶喜は水戸徳川家水戸斉昭(みとなりあき、烈公)の子ということで、血筋としても申し分のないものがありました。
もっとも、この画策は頓挫をし、将軍継嗣となった徳川家定は父の死後第13代将軍になります。
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徳川家定の生涯2 篤姫を正室に迎えるまで
エピソード2
★ 徳川家定は3度正室を迎えていた
★ 篤姫は徳川家定にとって3人目の正室だった
★ 徳川家定は周囲から評価をされていなかった
★ 将軍在位中にも拘わらず周囲では激しい後継者争いが行われていた
徳川家定が篤姫を正室に迎えたのが1856年。ただし、徳川家定が正室を迎えるのは3度目になります。
最初は鷹司任子(たかつかさあつこ)。徳川家定が鷹司任子を正室に迎えたのは1842年。しかし、天然痘のため1848年には死去。
次は一条秀子(いちじょうひでこ)。一条秀子は1849年に徳川家定の正室となりますが、翌1850年に病死。
徳川家定は2度にわたり京から正室を迎えるものの2人とも病死。子を授かることもありませんでした。
そして、3度目に正室に迎えたのが近衛忠煕の養女である篤姫です。
3度目も京の公家から正室を迎えることになりますが篤姫は養女。篤姫の父は薩摩藩島津家の一門の娘。それが時の薩摩藩主島津斉彬の養女となり、さらに近衛家の養女となり、徳川家定の正室になります。
最初の婚姻も、2度目の婚姻も幕府と朝廷の融和を図るための政略結婚ですが、3度目の結婚はさらに政略結婚の要素を強くしています。
徳川家定は将軍になりましたが周囲は徳川家定に将軍を務めるだけの能力はないと考えていました。
当時の有力大名の一人であった松平慶永(松平春嶽)は、徳川家定を「凡庸の中でも最も下等な人物」と評しています。
また、徳川家定は病弱である事は周囲にも知られていて、長くは生きられないどころか、後継者を残すこともできないと考えられていました。
そうなると周囲が考えるのは徳川家定亡き後の第14代将軍。
当時、最も後継者に近かったのは後の第14代将軍徳川家茂と考えられていました。
徳川家茂は御三家の一つである紀州徳川家の藩主。血統的には申し分ないものの徳川家茂はまだ10歳台の若者でした。
一方、世情を見ると1854年には日米和親条約が締結されるなど、外国の圧力が強くなるとともに、国内情勢も不安定な時期でした。
少年では国難を乗り越えられないことは明らか。そこで、第14代将軍に徳川慶喜を推そうと考えたのが、前述の松平慶永や薩摩の島津斉彬になります。
そして、徳川家茂を将軍に画策しようとする井伊直弼などの「南紀派」に対抗するために、松平慶永や島津斉彬は「一橋派」を構成し、そのために送り込まれたのが篤姫になります。
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徳川家定の生涯3 亡くなるまで
エピソード3
徳川家定は病死説が有力
徳川家定は大仕事をした翌日に亡くなっていることから毒殺説もある
南紀派と一橋派の抗争は激化します。
篤姫も大奥から一橋慶喜の擁立に尽力したとも伝えられていますが、この抗争は結果的に南紀派の勝利となります。
そして、徳川家定は徳川家茂を次の将軍に指名するとともに一橋派の処分を行います。
徳川家定は将軍になっても政務を顧みることはなかったと伝えられていますが、将軍継嗣の宣言と一橋派の処分は徳川家定が将軍として行った数少ない政務の一つと考えられています。
1858年に徳川家定は亡くなります。死因は病死という説が有力ですが、病名は2つが伝えられています。 一つは脚気、もう一つはコレラです。
当時、脚気は普通にみられる病気で第14代将軍徳川家茂の死因も脚気と考えられています。
また、コレラも当時流行っていたということで、こちらについても違和感はありません。
しかし、脚気とコレラでは明らかに病状が異なります。将軍の死に関して2つの病名がささやかれるのは少しばかり不思議です。
また、まったく別の説では毒殺説もあります。
実は徳川家定が亡くなったのは、前述の将軍継嗣を宣言した日と一橋派の処分を発表した日の翌日です。
大仕事をした翌日にあっけない死を遂げていることから、徳川家定は毒殺をされたという噂も根強いようです。
さいごに
この記事では、徳川家定の生涯をエピソードを入れて簡単にご紹介してきました。
まず、徳川家定についてわかったのは次のようなことです。
徳川家定には将軍を継ぐだけの能力はなかったが、消去法的に将軍になった。
徳川家定は将軍になったものの、すでに周囲では後継者選びが行われていた。
徳川家定は後継者を指名した直後にその役割を終えたかのように亡くなった。
徳川家定は将軍として後世に名を残してはいますが、残念ながらほとんど好ましいエピソードが残っていません。
それは将軍という立場だからこそ記録に残せなかったのか、将軍の在位期間が短く目立つほどの業績を残さなかったのか、そのあたりは定かではありません。
徳川家定については「都市伝説」的な話も多いのかもしれませんが、実際の徳川家定はどのような人物だったのでしょうか。
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