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井伊直弼の安政の大獄と桜田門外の変をピンポイント解説

江戸城桜田門
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この記事では、井伊直弼(いいなおすけ)にまつわる有名な出来事である、安政の大獄と桜田門外の変についてピンポイントでお伝えをしていきます。

まずは、井伊直弼の略歴をご紹介したうえで、安政の大獄そして桜田門外の変の順で書き進めていきます。

井伊直弼の略歴

それでは井伊直弼の略歴を表にしてご紹介します。

 
1815年彦根藩主井伊直中の14男として生まれる
1850年彦根藩主となる
1858年大老に就任する
日米修好通商条約を締結する
安政の大獄が始まる
1860年桜田門外の変で生涯を閉じる

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井伊直弼と安政の大獄

それでは1858年から1859年にかけて行われた、安政の大獄の原因からお伝えをしていきます。

安政の大獄の原因とは

安政の大獄の原因としては、将軍継嗣問題と日米修好通商条約の2つが考えられます。

将軍継嗣問題

将軍継嗣問題とは、江戸幕府第13代将軍徳川家定の後継者問題です。

徳川家定は将軍であったとはいえ、生来の病弱で政務を執る能力はなく、短命に終わることが危惧されていました。

そのため将軍に就任した1853年当時から将軍継嗣問題が課題となっていました。

このとき、第14代将軍に一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ、後の徳川慶喜)を推そうとしたグループが一橋派。

徳川慶福(とくがわよしとみ、後の徳川家茂)を推そうとしたしたグループが南紀派です。

 

★ 一橋派を構成するメンバーとしては、

徳川斉昭 (とくがわなりあき)、徳川慶篤(とくがわよしあつ)、松平慶永(まつだいらよしなが)、島津斉彬(しまづなりあきら)、伊達宗城(だてむねなり)、山内豊信(やまのうちとよのぶ) など。

★ 南紀派を構成するメンバーとしては、

井伊直弼、松平頼胤(まつだいらよりたね)、松平忠固(まつだいらただかた)などがいました。

 

一橋派と南紀派は将軍継嗣問題で争いますが、1858年に徳川家定が亡くなり徳川慶福が第14代将軍に就任したことで将軍継嗣問題は南紀派の勝利に終わります。

井伊直弼は将軍継嗣問題で敵対した一橋派の粛正に乗り出し、一橋慶喜、徳川慶篤、松平春嶽、伊達宗城、山内容堂に隠居・謹慎処分などが下されます。

井伊直弼のこの処分は安政の大獄の始まりとも考えられ、この処分に不満を抱いた水戸藩士などが後の桜田門外の変を引き起こすことになります。

日米修好通商条約

日米修好通商条約は1858年に締結をされています。もっとも、この条約は日本に不利であったばかりでなく、朝廷の許可(勅許)を得ていないという問題がありました。

黒船の来航以来、国内の風潮としては攘夷運動が盛んでしたが、井伊直弼が締結した日米修好通商条約はさらにこの運動を助長させることになります。

そして実際に国内のあちらこちらで攘夷運動が盛んになり、井伊直弼に対する批判の声も日増しに高まります。そこで井伊直弼が行ったのが弾圧が安政の大獄です。

安政の大獄の経緯

将軍継嗣問題では、一橋派に属した多くの大名が処分をされています。

これが安政の大獄のきっかけといわれていますが、より大きな弾圧は尊王攘夷活動に奔走した人々に向けられています。

 

安政の大獄では100人以上の公家や志士たちが捕縛をされています。

そして、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎など6名が斬罪。

梅田雲浜、日下部伊三治など8名が切腹・獄門・獄死で最期を迎えています。

 

なお、安政の大獄は1858年から1859年にかけて行われています。

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井伊直弼と桜田門外の変

江戸城桜田門桜田門

将軍継嗣問題で大きなダメージを受けたのが水戸藩です。

水戸藩の前藩主徳川斉昭、藩主徳川慶篤、徳川斉昭の実子で一橋家を継いでいた徳川慶喜は安政の大獄で処分を受けています。

そして水戸藩士が朝廷に働きかけた結果、孝明天皇より尊王攘夷の実施を促す密勅が水戸藩に下されます。

しかし、これは幕府にとって看過できる問題ではありません。

水戸藩は徳川御三家の一つで家格が高い家柄であることに間違いはなく、当時の日本では尊王攘夷思想が最も浸透していた藩としても知られていました。

しかし、日本の政務を司るのはあくまでも幕府。幕府から見たら密勅が水戸藩に下されるのはあってはならないことです。

幕府の大老であった井伊直弼は激怒して、水戸藩に密勅の返還を求めます。水戸藩も密勅を返還すべきという意見と、返還してはならないという意見に分かれます。

安政の大獄により大きなダメージを受けた水戸藩ですが、それだけでなく密勅の存在がさらに井伊直弼の水戸藩に対する圧力を強めることになります。

そして、起きたのが桜田門外の変。桜田門外の変は1860年3月24日に起こっています。この日は旧暦でいえば安政7年3月3日。

3月3日の上巳の節句に際して江戸城へ向かおうとしていた井伊直弼の行列が、江戸城桜田門の外で襲撃されたのが桜田門外の変です。

桜田門外の変で井伊直弼を襲ったのは、水戸藩を脱藩した17名と、薩摩藩を脱藩した1名の合計18名。

18名の水戸藩と薩摩藩の元藩士が井伊直弼の暗殺を狙い、結果的には元薩摩藩士の有村次左衛門により落命をしています。

さいごに

江戸城遠景
この記事の最後に桜田門外の変後について、少しだけご案内をしていきたいと思います。

まず、襲撃をした18名ですが明治を迎えることができたのはわずかに2人。

あとは桜田門外の変で討ち死、後に捕らえられて斬首など、襲撃した側からみて桜田門外は命がけの行為であったことがわかります。

では、襲撃をされた井伊家はどうだったのでしょうか。

桜田門外の変で討ち死にをした藩士もいましたが、生き残った藩士に対しても主君を守れなかったということで切腹などの処断が下されています。

また、襲撃を易々として許した井伊家は断絶は免れることができましたが、10万石を減封されています。

幕末の一時期、独裁政権を築いていた井伊直弼ですが、その代償はあまりにも大きなものであったようです。

ところで桜田門外の変は井伊家だけに打撃であったわけではありません。

時の幕府の中枢を担っていた大老がたった18名の襲撃により命を落とした。桜田門外の変は井伊家だけでなく、江戸幕府にも大きな爪痕を残しています。

そして桜田門外の変後に討幕の機運が高まり、1868年には明治を迎えます。桜田門外の変は、結果的にはその後の歴史の大きな転換点になったといえそうです。

 

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