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目次
徳川四天王とは
この記事では、徳川四天王と言われた、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人の武将についてご案内をしていきます。徳川四天王とは、徳川家康が艱難辛苦の時代から江戸幕府を創設する頃まで、徳川家を支えた前述の4人の武将です。
徳川四天王の言葉がいつ生まれたのかははっきりとはしていませんが、有力なのは4人の武将が叙位任官されたとき。
この説が正しければ、それは1586年頃になります。
織田信長が、本能寺の変で倒れたのが1582年。
豊臣秀吉が、小田原征伐で後北条氏を倒し天下統一を果たしたのが1590年。
豊臣秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いが起こったのが1600年。
そして徳川家康が、江戸幕府を開府したのが1603年。
徳川家康が天下を取るはるか以前に、徳川四天王の言葉は生まれていた。そのように考えることができそうです。
四天王については、他にも武田四天王や上杉四天王が知られています。
しかし、武田四天王や上杉四天王は、そこにあげられる4人の武将が確定していなかったり、実在が疑われている人物もいます。
それに対して、徳川四天王は4人の武将も、その事績もある程度、はっきりしているのが特徴的です。
なお、徳川四天王を生年順にご案内すると、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政。それでは、生年順に4人の武将の事績を、簡単にご案内していきます。
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徳川四天王の4人の武将をご紹介します
それでは、徳川四天王といわれた4人の武将を簡単にご紹介していきます。徳川四天王1 酒井忠次(さかいただつぐ)
酒井忠次の生年は1527年、没年は1596年になります。徳川四天王の中では一番の年長。
また、主君である徳川家康の生年が1543年、没年が1616年なので、酒井忠次は徳川家康よりもずっと年長であることがわかります。
酒井忠次は、徳川家康の父である松平広忠の時代から松平家(後の徳川家)に仕えますが、松平広忠が家臣に殺されると、松平家の運命は風前の灯。
松平氏は隣国の今川氏に従属する道を選び、嫡男である(後の)徳川家康を人質に出すことになります。
このとき、徳川家康に随行した家臣の一人が酒井忠次です。この時点で、酒井忠次は重要な立場であったことがわかります。
1560年に桶狭間の戦いが終わると、徳川家康は人質生活から解き放たれて岡崎城に帰還。酒井忠次も家老の一人に取り立てられます。
その後は、今川氏を倒すための駿河侵攻で武田氏と外交交渉をしたり、浅井長政・朝倉義景と対戦した姉川の戦い、武田信玄と対戦した三方が原の戦いなど、徳川氏の重要な戦いに参陣してます。
酒井忠次は、交渉ごとや戦いの場、どの場面においても徳川家康にとって欠かせない人材であったと言えるでしょう。
しかし、酒井忠次の運命の歯車は少しずつ狂ってきます。
それは、1579年に徳川家康の嫡男である松平信康が、織田信長に謀叛の疑いをかけられたときのことです。
織田信長は酒井忠次を呼び出し真偽を確かめます。このとき酒井忠次は、主筋である松平信康をかばうよりも、むしろ織田信長に同調。
結果として松平信康は切腹に追い込まれ、酒井忠次は徳川家康の不興をかっています。
(最近では徳川家康と松平信康の間に深い対立があり、徳川家康自身が嫡男の松平信康を疎ましく思っていた。そのため織田信長や酒井忠次の協力を得て、松平信康を廃嫡に追い込んだとも言われています)
松平信康が切腹して後も、酒井忠次は徳川家において重要な地位を占めます。
この当時の、徳川家で重要な立場であったのは酒井忠次と石川数正。
しかし、1585年に石川数正が豊臣秀吉の元に出奔。この事件で酒井忠次は、徳川家の筆頭家老になります。
酒井忠次は1588年に加齢と病気を理由に、嫡男の酒井家次に家督を譲り、1596年京都で生涯を閉じます。
ところで、豊臣秀吉が後北条氏を攻め滅ぼした1590年の小田原征伐の後、豊臣秀吉の命で徳川家康は関東に移ります。
このとき、徳川四天王である本多忠勝、榊原康政、井伊直政には10万石以上が与えられたのに対し、酒井家次には僅か3万石。
そこで隠居をしていた酒井忠次が徳川家康に文句を言ったとき、徳川家康に「そなたでも子がかわいいか」と言われた逸話はとりわけ有名です。
しかし、松平信康を切腹に追い込んだのが徳川家康の策略によるものだとしたら、このような言葉はでてこないはず。
この逸話は有名ですが、最近ではフィクションではないかとも考えられています。
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徳川四天王2 本多忠勝(ほんだただかつ)
本多忠勝の生年は1548年、没年は1610年で、徳川家康よりも5歳の年少になります。
本多氏は、本多忠勝以前から松平氏の譜代です。
もっとも、徳川家康の名参謀と言われた本多正信とは同じ本多一族ではあっても別の家系で、本多忠勝は本多正信を嫌っていたと言われています。
本多忠勝については多くの逸話があります。
1560年の桶狭間の戦い、本多忠勝は13歳で初陣を果たします。
そのとき叔父が敵兵を討ち取り、その手柄を本多忠勝に譲ろうとしたところ、本多忠勝は手柄は自分の力でとると申し出を断り、実際に自らの力で戦功をあげています。
1570年の姉川の戦いでは、敵兵1万人の前を単騎で駆け抜け、敵の意表をつき味方の危機を救っています。
1582年本能寺の変の時、徳川家康は堺を遊覧。明智光秀から逃れられないと考えた徳川家康は切腹しようとします。
それを押しとどめたのが本多忠勝です。結果として伊賀越えを果たした徳川家康は、生き延びることができています。
1584年の小牧長久手の戦いでは、敵の軍勢数万人の前を僅か500名で敵に対峙。敵であった豊臣秀吉もその豪胆ぶりに感動し、本多忠勝に攻撃を仕掛けることを禁じます。
また、本多忠勝には他にも逸話が残っています。
本多忠勝の持つ槍は蜻蛉切といわれています。
これは、本多忠勝の槍の穂先に蜻蛉がとまったところ、蜻蛉が真っ二つになってしまったことからつけられたものです。
本多忠勝が武田氏と戦ったとき、敵である武田氏の家臣から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と讃えられています。
唐の頭とは、当時の武将の間で流行った兜で高価なことで知られていました。
本多忠勝は、その他にも織田信長や豊臣秀吉から称賛をされています。
本多忠勝の何よりの自慢は戦上手だったこと。本多忠勝は生涯で57回の戦に臨んでいますが、1回もかすり傷さえ負うことがなかったと言われています。
そのため、徳川家康が戦いに臨むに際して最も頼りにしたのが本多忠勝です。
そうした戦功の数々もあって、1590年上総国で10万石、さらに1601年に伊勢国桑名に移封されています。
本多忠勝が本多忠政に家督を譲ったのは1609年。翌年1610年に病死をしています。
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徳川四天王3 榊原康政(さかきばらやすまさ)
榊原康政の生年は1548年、没年は1606年で、本多忠勝とは同い年になります。榊原康政の出自は、はっきりとしない部分があるものの松平氏にとっては家臣の家臣。つまり陪臣であったと考えられています。
それが徳川家康の目に留まり、桶狭間の戦い後に徳川家康の小姓を務めています。
榊原康政自身は、多くの戦に参加をしています。
その数は前述の本多忠勝と大きく変わることはありませんし、実際にそれぞれの戦場で武功も挙げています。
ただ、本多忠勝ほどの逸話はあまり聞こえてこないようです。
榊原康政の知名度がとりわけあがったのが1584年の小牧長久手の戦い。
小牧長久手の戦いは織田信長の後継者争いの戦いで、具体的には豊臣秀吉と、織田信長の三男である織田信雄がぶつかった戦いです。
もっとも豊臣秀吉対織田信雄というよりも、実質は豊臣秀吉と織田信雄を支援した徳川家康が、唯一直接にぶつかった戦いとして有名です。
小牧長久手の戦いで、榊原康政は豊臣秀吉を馬鹿にしたような立札をたて豊臣秀吉を挑発します。
戦力的には、はるかに勝る豊臣秀吉。
その豊臣秀吉を怒らせて、戦術の失敗を誘い出そうとした立札と考えられていますが、案の定、豊臣秀吉は激怒。
小牧長久手の戦いは、戦だけを見れば徳川家康の勝利と言われていますが、その戦功の一部は、豊臣秀吉を怒らせ判断を誤らせることに成功した榊原康政にあるとされています。
その後、徳川家康が豊臣秀吉に臣従することになり、榊原康政は徳川家康に随行し上洛を果たします。
豊臣秀吉を激怒させた榊原康政。
榊原康政は大きな処分を受けても不思議ではありませんでしたが、豊臣秀吉はむしろ称賛。榊原康政は、面目を施したと伝えられています。
榊原康政は、1590年に上州館林で10万石の大名になり、1606年に病死をします。
榊原康政は戦場での武功は本多忠勝に劣ると言われていたようです。しかし、一軍の将としては本多忠勝よりも優れているとされていました。
なお、徳川四天王の中で酒井忠次を除いた3人は比較的年齢が近かったため、榊原康政は本多忠勝とも井伊直政とも仲が良かったと伝えられています。
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徳川四天王4 井伊直政(いいなおまさ)
井伊直政の生年は1561年、没年は1602年です。
井伊家は松平氏の家臣ではなく、小さいながらも井伊谷という地域を治める領主でした。
もっとも、他と戦うほどの力はなく、井伊直政が生まれたころは今川氏に従属する立場でした。
しかし、1560年桶狭間の戦いで今川義元が討死するとその関係に変化が生じます。
戦国大名としての今川家が滅亡したのは1569年。井伊家は徳川家康に接近をすることを画策します。
そして、1575年に井伊直政は徳川家康の小姓になることに成功します。
井伊直政は徳川家康の元で順調に出世をします。その井伊直政を一躍有名にしたのはいわゆる「赤備え」。
戦国最強の軍団と言われていたのは武田氏です。
その武田氏の中で、とりわけ勇猛で知られていたのは山県昌景。山県昌景の部隊は、全身朱色の軍装をすることで知られていました。
武田氏は1582年で滅亡をします。
当然、武田家の家臣は牢人の身分となりますが、それを積極的に採用したのが徳川家康。また、山県昌景の赤備えを引き継いだのは井伊直政。
井伊直政の赤備えが初めて戦場に現れたのは、1584年の小牧長久手の戦いと言われていますが、その勇猛ぶりから「井伊の赤鬼」と恐れられるようになります。
井伊直政の領地が大幅に増えたのは、本多忠勝や榊原康政と同じように1590年。
ただ、この2人と異なっていたのは本多忠勝や榊原康政が10万石であったのに対して、井伊直政は上野国箕輪12万石を与えられたこと。
井伊直政は徳川四天王の中で最も年少。また、武功はあったとはいえ、戦歴を考えたら本多忠勝や榊原康政よりは劣ります。
徳川四天王の中で、どうして井伊直政が優遇されたのかはわかりません。
ただ出自を考えると、元々の身分は小さいとはいえ、井伊氏は井伊谷を治める領主。さらに井伊直政は、井伊家第24代の当主と、由緒ある家柄を誇っていました。
こうした点が考慮された可能性は否定できません。
実際、井伊直政は関ヶ原の戦い後18万石で移封。移封された彦根で幕末まで生き延びています。
井伊直政は関ヶ原の戦いで鉄砲傷を負います。その鉄砲傷が原因で1602年に亡くなります。
徳川四天王の他の3人が病死であったのに対して、井伊直政は戦場で受けたケガにより死を迎えています。
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さいごに 徳川四天王の役割とは
徳川四天王は、徳川家康が関ヶ原の戦いで天下を取るまで活躍した武将と言えそうです。
徳川四天王の中で、酒井忠次だけは関ヶ原の戦い以前に隠居していますが、これは加齢によるもの。
それ以外の3人も、関ヶ原の戦い以降の活躍はそれほど知られていません。
これは徳川家康の状況によるものと考えられます。徳川家康が関ヶ原の戦いに勝つまでは、何といっても武力が重要でした。
そのため、戦うことに優秀であった4人が徳川四天王として存在しています。
しかし関ヶ原の戦いで勝利し、1603年に江戸幕府を開くころには武で治めるよりも、外交で政治を進めることが多くなっていきます。
そうなると、いわゆる武断派よりも文治派の方が徳川家康にとっては重要になった。その代表が本多正信です。
徳川家康の立場が変わることで、徳川四天王の役割の重要性も失われていった。
それが徳川四天王であったように思われます。
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