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坂本龍馬と妻(おりょう)の出会いとその後をご案内します!

坂本龍馬とおりょうの像
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この記事では、坂本龍馬の妻といわれたおりょうについて書いていきます。

坂本龍馬とおりょうにはどのようなエピソードがあったのでしょうか。

坂本龍馬の死後、おりょうはどのような生涯をたどったのでしょうか。

このあたりを中心に、坂本龍馬と妻おりょうとの出会い、別れ、その後をご案内します。

おりょうとは

おりょうの名前は楢崎龍(ならさきりょう又はならざきりょう)です。ただし、楢崎竜と記載されることもあります。

坂本龍馬も坂本竜馬と表記されることもありますが、何となく似ています。

生没年は、1841年に生まれ1906年に亡くなったという説が有力ですが、1837年に生まれ1879年に亡くなったとも言われています。

1906年は明治39年、1879年は明治12年。特に亡くなった年には大きな違いがあります。

おりょうは坂本龍馬の妻として有名な女性ですが、坂本龍馬が亡くなった後は不思議な運命をたどっています。

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坂本龍馬とおりょうとの出会い

おりょうは、青蓮院宮(しょうれんいんのみや)の侍医を務めていた医師楢崎将作の長女として生まれます。もっとも実子ではなく養女であったという説もあります。

楢崎将作は、尊王思想に篤く勤皇の志士達と交流があったといわれていますが、安政の大獄で捕えられ牢死または釈放後に病死をしたと考えられています。

生活に困窮したおりょうは七条新地の料理旅館扇岩(おうぎいわ)に奉公にでます。坂本龍馬とおりょうが出会ったのはこの頃で、坂本龍馬はおりょうに強い興味を覚えやがて結婚。

その後、坂本龍馬はおりょうを伏見の船宿寺田屋(てらだや)に預け、各地を奔走するようになっていきます。

坂本龍馬とおりょうとのエピソード

京都伏見の寺田屋寺田屋

坂本龍馬とおりょうが夫婦になったのが1864年(元治元年)8月、坂本龍馬が亡くなったのは1867年(慶応3年)11月。

夫婦であったのはたった3年ですが、坂本龍馬とおりょうにはいくつかのエピソードが残されています。

エピソード1 寺田屋事件

1866年1月、薩長同盟が締結されます。

薩長同盟は江戸幕府倒壊に直接に結び付く大きな出来事ですが、当時、とても仲が悪かった薩摩と長州を結びつけたのが土佐の坂本龍馬です。

薩長同盟そのものはすぐに漏洩することはなかったものの、坂本龍馬自身は以前より幕府に目をつけられていました。

その坂本龍馬が投宿していた寺田屋に幕府の手が伸びたのが、薩長同盟締結の翌日に起こった寺田屋事件です。

幕府の捕吏が寺田屋を囲みます。

坂本龍馬はそのことに気がついてはいませんでしたが、1階の風呂に入っていたおりょうがいち早くこのことに気が付きます。

後世、おりょう自身が語った言葉によれば、着物を着る暇もなく全裸で階段を駆け上り坂本龍馬に敵がきたことを知らせたとあります。

坂本龍馬はおりょうの機転で不意打ちを避けることができ、両手の指に大きなけがを負うものの最終的には寺田屋を脱出することができています。

偶然とはいえおりょうの働きがなければ、坂本龍馬はこの寺田屋で生涯を終えていた可能性が高いと考えられています。

エピソード2 新婚旅行

薩長同盟という大きな仕事を果たした。寺田屋事件で大きなけがを負った。

このような事情が重なったことで、西郷隆盛の勧めもあり坂本龍馬とおりょうは鹿児島に湯治に向かいます。

後世、この旅行が日本での新婚旅行の始まりであるともいわれています。

また、鹿児島に滞在中、高千穂峰(たかちほのみね)に登った坂本龍馬とおりょうは山頂にある「天の逆鉾」を抜いてしまうといういたずらをしていて、これもエピソードとして伝えられています。

エピソード3 海援隊隊士との関係

坂本龍馬は土佐藩浪士を中心とした海援隊を組織してさまざまな活動をしていました。

海援隊の実質的なリーダーは坂本龍馬でしたが、その結びつきは上司と部下という関係よりも同志という色合いが強いものでした。

しかし、おりょうは海援隊の武士たちを家来のように扱い、使い走りをさせていたといわれています。

おりょうは勝ち気でプライドの高い女性というのが定説のようになっていますが、海援隊隊士からすればおりょうは単に坂本龍馬の妻というだけで、自分たちよりも上の立場にいる者ではないという思いが強くありました。

海援隊隊士にとって、坂本龍馬生存当時からおりょうは目障りな存在であったようで、このことは坂本龍馬が亡くなった後のおりょうの困窮ぶりに拍車をかけることになります。

エピソード4 その他

おりょうは色白の美人で京で育った京女でした。

そのため坂本龍馬だけでなく、多くの人たちを引き付けていたのかもしれません。その一人が新選組の局長である近藤勇です。

明治におりょうが語ったところによると、近藤勇が一方的におりょうに好意を寄せていて、櫛やかんざしをプレゼントしていたそうです。

もっとも、おりょう自身は近藤勇にはまったく興味を示さず、近藤勇のことを顔が四角くて口が大きい女好きと酷評をしています。

このこと以外でも、坂本龍馬とおりょうが歩いているときに新選組と出会ったら坂本龍馬が隠れてしまった話や、桐野利秋に寝ているところを襲われた話など、歴史の表舞台で活躍した人物ではないにも関わらずおりょうには数々のエピソードが残されています。

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坂本龍馬死後のおりょう

1867年(慶応3年)11月、坂本龍馬は近江屋で暗殺をされます。その後のおりょうはどのような運命をたどったのでしょうか。

土佐で生活

坂本龍馬の死後の1868年、坂本龍馬の妻であったということでおりょうは土佐の坂本家の世話になります。

しかし、坂本龍馬とおりょうは実家の坂本家の承諾なく勝手に結婚をした関係。当時の考え方からすると、坂本家はおりょうを正妻ではなく妾程度に考えていた可能性があります。

そのため、坂本家は当初からおりょうの受け入れに難色を示していたとも伝えられます。

結果的に坂本家に入ったおりょうでしたが、おりょうは家事一切が苦手で遊んでばかり。

そのため、坂本家もおりょうを受け入れることができず、おりょうはわずか3か月程度で土佐を離れることになります。

なお、おりょうと仲が悪かったのは坂本龍馬の姉である乙女と伝えられています。

しかし、おりょうは後に坂本龍馬の死後親切にしてくれたのは、勝海舟と西郷隆盛と乙女姉さんと語っています。

おりょうと仲が悪かったのは乙女ではなく、坂本龍馬の兄で坂本家の当主であった坂本権平であったようです。

京都で生活

土佐を離れたおりょうは京都に戻り坂本龍馬の墓守をするようになります。

このときに頼ったのは寺田屋のおかみであるお登勢です。しかし、お登勢もおりょうに関して坂本龍馬の妻としてはふさわしくないと断じています。

おりょうは明治になり数年を京都で過ごしていますが、やがて居場所を失い1873年(明治6年)頃には京都を立ち去り東京に向かいます。

東京で生活

東京に来たおりょうは昔の海援隊隊士などを訪ねています。しかし、冷たくあしらわれて行き場をなくしていきます。

そこで頼ったのは西郷隆盛。西郷隆盛はおりょうにお金を渡し面倒も見ると語りますが、西郷隆盛自身が征韓論で下野することになります。

また、おりょうは勝海舟も頼ります。勝海舟は、神奈川の料亭の仲居の仕事を紹介しています。

横須賀で生活

神奈川の料亭で働くようになったおりょうは、1875年(明治8年)に西村松兵衛と再婚します。

西村松兵衛については、はっきりしたことはわかりませんが、以前は京都の呉服商の若旦那でおりょうとも幼馴染であった。

しかし家業が傾いてしまったため京都を離れ、横須賀で商人をしていたと考えられています。

再婚をしたおりょうですが、その暮らしぶりは楽ではなかったようです。一説に、再婚当初はよかったが、段々と悪くなっていったとも伝えられています。

おりょうの晩年は、今でいう「アルコール依存症」であったようです。

そしてお酒を飲むたびに「私は坂本龍馬の妻だった」「坂本龍馬さえ生きていれば」というのが口癖であったようです。

その言葉を夫の西村松兵衛がどのように聞いていたのかは定かではありませんが、おりょうの哀れな晩年を垣間見せてくれる言葉です。

さいごに 坂本龍馬のもう一人の妻

坂本龍馬とおりょうが新婚旅行で訪ねた高千穂の峰の天の逆鉾天の逆鉾

この記事では、坂本龍馬と妻・おりょうとの出会い、別れ、その後をご案内してきました。ところで、坂本龍馬にはもう一人の妻がいたことが知られています。

厳密にいえば妻ではなく婚約者ですが、その女性は千葉さな子(1831年~1896年)。

坂本龍馬は1853年から約1年間、1856年から約3年間、2度にわたり江戸で剣術修行をします。

その時に入門をしたのが千葉定吉道場。そして、千葉定吉の子の一人が千葉さな子です。

坂本龍馬と千葉さな子は1858年頃に婚約をしたと伝えられています。もっとも、坂本龍馬はその直後に江戸を離れ、婚約が結婚に結び付くことはありませんでした。

千葉さな子は後に坂本龍馬の死を知り、坂本龍馬の紋付の袖を形見としてずっと持ち続けていたといわれています。

坂本龍馬と千葉さな子は正式な婚姻をしているわけではありません。しかし、後におりょうは千葉さな子のことを相当辛らつに批判をしています。

このことから坂本龍馬と千葉さな子の関係は思いのほか深かったと推測することもできます。

坂本龍馬が亡くなった後の千葉さな子については少し不明な部分があります。

以前は、千葉さな子は終生独身であったと伝えられていました。しかし近年になり坂本龍馬の死後、期間は短いながらも結婚をしていたという説もあるようです。

坂本龍馬の妻としてはおりょうがあげられます。また、妻ではなかったけれど許嫁としての千葉さな子も知られた存在です。

おりょうと千葉さな子、この2人は坂本龍馬のことをどのように思っていたのでしょうか。

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