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大久保利通と西郷隆盛
明治維新の3傑と称されたのは大久保利通と西郷隆盛と木戸孝允。このなかで、大久保利通と西郷隆盛は同じ薩摩に生まれ年齢も近く、境遇も似通っていたため、少なくとも明治維新を迎えるまでは強い関係で結ばれていました。
しかし、大久保利通と西郷隆盛は明治6年の政変で袂を分かち、さらに明治10年の西南戦争では敵味方として戦うことになります。
明治6年の政変から西南戦争までの過程で、大久保利通と西郷隆盛は対立し仲も悪くなったとも言われていますが、果たして2人の関係はどうだったのでしょうか。
この記事では、大久保利通と西郷隆盛の略歴をご紹介するとともに、大久保利通と西郷隆盛に関しての、いくつかのエピソードをご紹介します。
そして、大久保利通と西郷隆盛の性格の違いから、改めて大久保利通と西郷隆盛の関係を探ってみました。
なお、明治維新前の大久保利通の名前は大久保一蔵、西郷隆盛の名前は西郷吉之助という名前で語られることが多いとは思いますが、この記事では大久保利通、西郷隆盛の表記で記事を書き進めていきます。
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西郷隆盛と大久保利通の略歴
西郷隆盛
1828年 | 薩摩藩の下級武士の長男として下加治屋町生まれる |
1854年 | 藩主島津斉彬に見いだされる |
1858年 | 島津斉彬が亡くなり弟島津久光の子忠義が薩摩藩主となる |
1858年 | 職を免じられ奄美大島に配流される |
1862年 | 赦免されるが島津久光の不興をかい徳之島に配流される |
1864年 | 赦免されて討幕運動に身を委ねる |
1866年 | 薩長同盟を結ぶ |
1868年 | 江戸無血開城をする |
1869年 | 新政府の参政となる(1870年に辞任) |
1871年 | 参議となる |
1873年 | 明治6年の政変に敗れ下野、薩摩に戻る |
1877年 | 西南戦争で敗れ城山にて生涯を閉じる |
大久保利通
1830年 | 薩摩藩の下級武士の長男として下高麗町に生まれるが幼少期に下加治屋町に転居 |
1853年 | 藩主島津斉彬に見いだされる |
1558年 | 島津斉彬が亡くなった後は島津久光に接近し重用される |
1869年 | 新政府の参議となる |
1871年 | 岩倉使節団の副使として外遊 |
1873年 | 明治6年の政変で西郷隆盛などを下野させる |
1877年 | 京都で西南戦争の指揮をとる |
1878年 | 東京紀尾井坂で暗殺される |
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大久保利通と西郷隆盛の関係を知る逸話
大久保利通と西郷隆盛は明治6年の政変を機として決定的な溝を生じさせています。
また、西郷隆盛が亡くなった西南戦争では、大久保利通が政府軍を指揮し、西郷隆盛が賊軍である私学校の首魁となります。
この事実だけを見れば、大久保利通と西郷隆盛は憎しみ合う関係であっても不思議ではありません。
しかし、実際はそうではない。2人が憎しみ合う関係でなかったことがいくつかのエピソードからうかがい知ることが出来ます。
大久保利通と西郷隆盛の逸話は数多く残されていますが、ここでは特に西南戦争以後の2人の関係を示す逸話をご紹介したいと思います。
エピソード1
大久保利通は西郷隆盛が西南戦争に加わっているという報告を受けてもそれを信じようとはしませんでした。また、そのことが事実とわかった時、大久保利通は自ら薩摩に赴き西郷隆盛を説得しようとしました。
さらに大久保利通は西郷隆盛と会い話ができれば、すぐに誤解が解けて分かり合えると信じていました。
結果的に大久保利通が薩摩に行くことを政府が許可しなかったため、2人が会うこともありませんでした。
エピソード2
西南戦争で西郷隆盛の死を聞いたとき大久保利通は、大粒の涙をこぼしながら何度も同じ場所を行ったり来たりして、西郷隆盛の死を悲しんでいました。エピソード3
大久保利通が暗殺された時、上着のポケットに西郷隆盛から送られた手紙が入っていました。また、出しそびれた西郷隆盛への手紙が入っていたとも伝えられています。
大久保利通と西郷隆盛の性格の違いが悲劇を生んだ
大久保利通も西郷隆盛も明治維新の立役者として活躍をしました。
年齢も近く、住んでいた場所も近く、2人は陰になり日向になり、それでも常に明治維新に突き進んでいました。
当時の日本に親友という観念があったかどうかは分かりませんが、お互いが必要不可欠な関係であったことは間違いないところだと思います。
しかし、大久保利通と西郷隆盛の関係が外面的にも内面的にも良好を保っていたのは明治の初めころまで。
その後は2人の性格の違いが亀裂を生み、最終的には敵味方となり戦うようになります。
少なくとも外面的には修復不可能なほど、2人の関係が悪化します。
大久保利通は革命家としても政治家としても優れていました。
大久保利通の特徴はあくまでも明治国家を考えるというもの。
そのため周囲の人々と軋轢を生じ、いわゆる権力闘争を繰り広げながら国家を作ろうとしてきました。
西郷隆盛は革命家としては大久保利通以上の才能を有していましたが、政治家としては不向きであったようです。
西郷隆盛自身もそのことを認めていたと言われていますが、西郷隆盛は常に個、特に江戸時代の武士階級を大切にしようとしていました。
また、大久保利通が国家建設に異常なほどの執着心を見せていたのに対し、西郷隆盛はむしろ淡泊。
そのため明治維新後は、常に明治政府から一定の距離を保とうとし、最終的には薩摩に帰ってしまいます。
国家を大切にしようとする大久保利通。
個人を大切にしようとする西郷隆盛。
残念ながら両方の望みがかなえられるような時代ではありませんでした。そのことが2人の亀裂を決定的なものとします。
ただ、内面的にはどうでしょうか。
いくつもの逸話が示す通り、大久保利通と西郷隆盛の間に感情的な憎しみを感じることはできません。
やはり2人は終生心の絆で結ばれていたのではないでしょうか。
大久保利通と西郷隆盛の心の中をうかがい知ることはできませんが、そんな気がします。
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