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徳川秀忠がしたことと性格や評価を分かりやすくご紹介!

徳川秀忠が居城とした江戸城
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徳川秀忠とは

この記事では、徳川秀忠がしたことと、性格や評価を分かりやすくご紹介します。

徳川秀忠は徳川家康の三男であるにもかかわらず、江戸幕府第2代将軍になっています。

運が良かったといえばそれまでですが、それだけではないようにも思われます。そこで、徳川秀忠のしたことを時系列で確認し、合わせて性格や評価についてもお伝えしていきます。

徳川秀忠がしたこと1 出生から関ケ原の戦いまで

徳川秀忠は徳川家康の三男です。ということは、長男と次男もいたはず。まずは、3人の生没年などをご紹介します。

 
名前生没年
長男松平信康1559年~1579年築山殿(正室)
次男結城秀康1574年~1607年於万の方(小督局)
三男徳川秀忠1579年~1632年西郷局
徳川秀忠が生まれたのは1579年で、当時、徳川家を継ぐのは徳川家康と同じ幼名「竹千代」を名乗っていた嫡男の松平信康のはずでした。

しかし、徳川秀忠が生まれた年に松平信康は切腹。徳川家康の子で、男子の最年長は次男の結城秀康になります。

では、徳川家の後継者は結城秀康に決まったのでしょうか。

いくつかの説があるため断言はできませんが、ここで問題になったのが生母です。

結城秀康の生母於万の方は、社人(神社に仕え社務を行う神職)の娘で、身分的に高い存在とは言えませんでした。

一方、徳川秀忠の母西郷局は名家土岐氏の一族と言われ、徳川家康の正室であった築山殿に及ばないまでも、徳川家康の側室の中では身分が高い女性でした。

異母兄弟の場合、母の家格も問題になります。

年齢的には結城秀康が上。しかし、母の家格は西郷局が上であったため、生まれた時から徳川秀忠は徳川家を継ぐ立場になった。

そのような意見もあるようです。

さて、後継問題が次に出てくるのは1584年、小牧長久手の戦いの後です。

小牧長久手の戦いは、本能寺の変後、天下取りを狙う豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)と、織田信長の次男織田信雄の戦いです。

ただ実態は、豊臣秀吉と織田信雄を支援した徳川家康の戦いで、両雄が対峙した唯一の直接対決と言われています。

小牧長久手の戦いが終結し、豊臣秀吉と徳川家康は講和をします。

この時、決まったのは

 

① 徳川家康の次男結城秀康を、豊臣秀吉の養子とする。(実質は人質)

※ この時点まで、結城秀康は松平姓を名乗っていたと思われます。養子になってからは羽柴姓。さらに豊臣家から結城家に養子に出され結城秀康となります。

② 豊臣秀吉の妹の朝日姫を徳川家康の正室とする。

③ 徳川家康と朝日姫の間に男子が生まれても嫡子とはしない。

④ 徳川家康が亡くなったとしても、家督は徳川秀忠に継がせる。

 

などです。

このことを見ても、徳川家康の後継者は結城秀康ではなく、徳川秀忠であった可能性が読み取れます。

1590年、小田原征伐の際、徳川秀忠は上洛して豊臣秀吉に謁見します。このとき、徳川秀忠は元服しますが、秀忠の秀の字は豊臣秀吉から受けたものです。

1592年に起こった文禄の役では、九州の名護屋へ出陣した徳川家康に代わり、関東の地に留まり領国経営に専念しています。

さらに、同年には豊臣秀吉の側室淀の方の妹於江与が、豊臣秀吉の養女となったうえで徳川秀忠の正室になります。

1598年に豊臣秀吉が亡くなり、1600年に起きたのが関ケ原の戦い。

このとき、徳川家康は本隊を率いて東海道を西に向かい、徳川秀忠は別動隊として中山道を西に向かいます。

ただ、徳川秀忠の軍勢は西上途中の上田城で籠城していた真田昌幸にかく乱され、関ケ原の戦いに間に合わず、徳川家康から強い叱責を受けています。

※ 徳川秀忠の軍を別動隊と書きましたが軍勢は38,000人で、構成は徳川家の家臣が中心でした。そのため、万が一のことがあっても徳川家の勢力は温存できる。したがって、徳川秀忠こそが本隊を率いていたのだとという説もあるようです。

関ケ原の戦い時点での徳川秀忠の年齢は21歳で、元服してからそれほどの年数は経っていません。

徳川秀忠がこれまでしてきたことは、父の徳川家康の指示を忠実に守っていく。そして、徳川秀忠の周囲の家臣が、徳川秀忠を支えていくという時期にあたります。

言い換えると、関ケ原の戦いまでの徳川秀忠は、徳川家を継ぐ者としての修行の期間であったように思われます。

 
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徳川秀忠がしたこと2 大坂の陣の前まで

関ケ原の戦いが終わった後に行われたのが徳川家康の後継者選びで、徳川家康は重臣を集め評議をします。

候補は、結城秀康・徳川秀忠・松平忠吉の3人です。松平忠吉は徳川秀忠の弟で、父も母も徳川秀忠と同じです。

結城秀康を推したのは本多正信。

徳川秀忠を推したのは大久保忠隣。

松平忠吉を推したのが井伊直政と本多忠勝で、徳川家康が裁定したのは徳川秀忠を後継とするものです。

徳川家康がこうした評議を行ったのかについては、疑問も呈されています。それは、既に後継は徳川秀忠に決まっていたのだから評議の必要はなかったはずというものです。

この説が正しければ、仮に評議が行われていたとしても、それは評議というよりも追認の場であった可能性もあります。

1603年、徳川家康は江戸幕府の初代将軍になります。さらに徳川家の世襲を世に知らしめるため、1605年には将軍の座を徳川秀忠に譲っています。

徳川秀忠が徳川家の後継になることは徳川家内部の問題ですが、将軍の世襲は政権の後継者であることを内外に示すものです。

ただ、この時点での政治体制は徳川家康が主で、徳川秀忠は従であったものと思われます。

徳川家康は駿府城に在住、徳川秀忠は江戸城に在住。言わば二元政治の時代で、徳川家康の指示を徳川秀忠が受けて実行に移していった。

すべてとは言わないまでもそうした傾向は強かったようで、それを揺るぎないものにしたのは徳川秀忠に付けられた本多正信であったのかもしれません。

本多正信は徳川家康の家臣でありながら、家臣以上の存在と言われ、徳川家康の信任がとりわけ厚かったと言われています。

そうした家臣を徳川秀忠に付けることで、徳川家康は自分の意思が正しく伝わり実行に移されることを期待したのかもしれません。

二元政治は齟齬が発生する機会が多くなるリスクを抱えていますが、徳川秀忠は誠実に政務を執り行ったと考えられています。

第2代将軍となった徳川秀忠が行ったことは、主に江戸幕府の土台作りでした。

江戸幕府を創設したのは徳川家康です。しかし徳川家康にはすべきことがたくさんありました。

最も大きかったのは、関ケ原の戦い以降の豊臣家の動向を注視することです。また江戸幕府ができたとはいえ、全国の大名は戦国時代を生き抜いてきた武将ばかりです。

徳川家康は主に豊臣家や諸大名との外交に力を注がなければいけませんでした。

また現実には将軍の座をほんの僅かな期間で徳川秀忠に譲っています。必然的に江戸幕府の土台を築いていくのが徳川秀忠の役割になります。

徳川秀忠が行ったのは軍事力を強化することです。

江戸幕府を作っても徳川家の力が強くなければ諸大名が従うわけもありません。

そのため徳川秀忠は、江戸幕府における軍事力の増強に努めるとともに、徳川家康が台頭したときに大きな力となった家臣たちが高齢化するのを見て、幕府内の人事の若返りを図るなど積極的な体制づくりに務めています。

この時期、徳川秀忠がしてきたことは目立たないながらも大きなものがあったと考えられます。

 
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徳川秀忠がしたこと3 徳川家康が亡くなるまで

1614年大坂冬の陣、1615年大坂夏の陣が起こります。

中心となるのは将軍である徳川秀忠の役割のはずですが、実際は百戦錬磨で野戦の名人と言われた徳川家康主導であったようです。

大坂の陣が終結し、最大の敵と目された豊臣家が滅亡して徳川秀忠が行ったのが、武家諸法度・禁中並公家諸法度などの制定です。

武家諸法度・禁中並公家諸法度も発布されたのは、大坂夏の陣の直後。

何れも徳川家康と徳川秀忠の協議の上での策定ということですが、この頃から後世にも残る徳川秀忠の事績が明確に表れてきます。

徳川秀忠がしたこと4 将軍の座を徳川家光に譲るまで

大坂の陣の翌年1616年に徳川家康は亡くなります。

それまでの二元政治から、紛れもない一元政治になった徳川秀忠がまず行ったのが家臣団の整備です。

徳川家康に従っていた家臣を組み込むとともに、有能な家臣を江戸幕府の老中に取り立て、将軍による政治体制を強化します。

また、外国船の寄港を平戸と長崎に限定しています。

鎖国の仕組みが完成するのは3代将軍徳川家光の時とされていますが、徳川秀忠が行った入港規制は鎖国政策の端緒となっています。

さらに徳川家康の六男で、徳川家康から面会禁止を通達されていた松平忠輝の領地を没収し配流に処している他、大名に関しては、福島正則の改易、本多正純の改易などを行います。

また、諸大名の妻子を江戸に住まわせ、大名の反抗を防ぐ人質政策も推進しています。

参勤交代も徳川家光の時代に完成したと言われていますが、徳川秀忠の人質政策はその端緒になったと考えられます。

1623年、将軍の座を徳川家光に譲ります。

大坂の陣が終結して、徳川家に対抗する強大な敵はいなくなりました。また翌年には徳川家康も亡くなっています。

二元政治から脱却したこの時期に、徳川秀忠がしたことはどんなことでしょうか。

まず、二元政治解消に伴う家臣団の整備があけられると同時に、徳川秀忠の権威を高めるための人材登用があげられます。

次に全国の大名の再編が行われます。この再編に関しては、実弟の松平忠輝だけでなく、多くの大名の改易を行っています。

徳川家康の時代は多くの大名の中から、徳川家康が台頭してきたということもあり、諸大名に対して遠慮がありました。

しかし関ケ原の戦い後に将軍の座に就いた徳川秀忠には、そこまでの遠慮は必要ありません。

江戸幕府の体制を確立するために、幕府から見て異分子とされた大名は、多くが改易の憂き目にあっています。

そして、江戸幕府の体制を確固とするために行われたのが人質政策で、後の参勤交代の制度につながっていきます。

歴史の教科書で有名なのは、武家諸法度・禁中並公家諸法度ですが、これは徳川家康とともに行ったもの。

あまり目立つことはありませんが、徳川家康亡き後に行った、果断な政策の数々こそが江戸幕府をしっかりとしたものにしたことは疑いないようです。

徳川秀忠がしたこと5 大御所政治

将軍職は徳川家光に譲ったものの、江戸城西の丸に移り、引き続き実権を握ります。

これは、徳川家康が行った二元政治と同じで、大御所政治とも言われていますが、徳川秀忠は父の政治手法を模倣しています。

この時期、徳川秀忠がしたことでもっとも知られているのは上洛です。

1626年、徳川秀忠は上洛し後水尾天皇に拝謁。1630年には、後水尾天皇と徳川秀忠の娘和子の間に生まれた女一宮が明正天皇として即位します。

この時代の徳川秀忠は、朝廷との関係を深めていったことが分かります。

大御所政治の時代に徳川秀忠がしたことは、引き続き実権を握り江戸幕府の体制を整備するとともに、朝廷との関係も深め最後には天皇の外戚にもなっています。

そして1632年、徳川秀忠は52歳の生涯を閉じています。

徳川秀忠の性格や評価とは

徳川秀忠は戦国末期に生きた武将ですが、戦歴は父徳川家康には遠く及びません。

知られているのも関ケ原の戦いへの遅参で、徳川秀忠の武将としての評価は低いようです。

また、大坂の陣に際しても徳川家康が注意したにもかかわらず行軍を急がせたため、大阪城に着いた時には兵は既に疲弊していた。

大坂の陣で先陣を務めたのは徳川家康の軍勢で、徳川秀忠の軍勢は後れを取り、満足な戦果をあげることはできなかった。

ここでも徳川秀忠の武将としての評価は芳しいものとはいえませんでした。

では、どうして徳川秀忠は将軍の座に就けたのでしょうか。

長兄の松平信康は既に亡くなっています。

しかし、次兄の結城信康は生きていて、武勇が知られていただけでなく、養父の豊臣秀吉からも器量を評価されていました。

また、徳川秀忠の実弟松平忠吉も武勇や知略には定評がありました。

そのため関ケ原の戦い以後の評議では、結城秀康や徳川秀忠だけでなく、松平忠吉を推す声もありましたが、言い換えるとそれだけ徳川秀忠の武将としての評価が低かったという裏付けになりそうです。

結果的に、2代将軍には徳川秀忠が就いています。

その根拠の一つにあげられるのが血筋であることは間違いないようですが、それだけで将軍になれるほど世の中は安定していません。

それでも、徳川秀忠が選ばれたのは、性格によるところが大きかったようです。

徳川秀忠は、父徳川家康の言いつけを守り、父の命令を素直に実行する人物だったとされてます。

重臣の大久保忠隣は、徳川秀忠のことを知勇と文徳があり、しかも謙虚な人柄であると評しています。

乱世の時なら武勇に優れた人物が必要ですが、乱世が終わった後、さらに天下を治めるのであれば武勇以上に大切なものがあります。

徳川秀忠は武勇に関しての評価は低いながらも、天下を安定させるための資質を持っている。

これが、徳川秀忠に関する評価ではないかと考えられます。

さいごに

江戸幕府の第2代将軍徳川秀忠は、初代の徳川家康や第3代の徳川家光と比較しても目立たない存在です。

しかし、江戸幕府の土台をしっかりとしたものにした政治手腕は、地味ながらも確かなものであったと考えられます。

 
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