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中澤琴は幕末を生きた女剣士
この記事では中澤琴についてご紹介をしていきます。幕末、時代を動かしたのは男性だけではありません。幕末の志士を支えた女性、大奥にあって江戸を火災から守った女性。幕末から明治維新にかけて活躍した女性は枚挙にいとまがありません。
その中には実際に刀を持って幕末を生きた女性もいます。
それが女剣士の中澤琴です。
中澤琴については残された史料も少ないようですが、女剣士中澤琴についてわかる限りでご紹介をさせていただきます。
中澤琴の生涯 戊辰戦争まで
中澤琴が生まれ育ったのは、現在の群馬県利根郡。
中澤琴の生年ははっきりとしていません。ただ、没年は昭和2年(1927年)10月12日、87歳又は88歳で亡くなったとあるので、逆算をすると生年は1839年頃ではないかと思われます。
中澤琴の父は中澤孫右衛門、兄は中沢貞祇(中沢良之助)で、中澤琴は兄よりも2歳又は3歳の年下であったと考えられています。
中澤琴は幼少時より父である中澤孫右衛門に刀や長刀を学び、特に長刀は父に勝る力量があったと言われています。
また、剣法は法神流であったと伝えられ、兄の中沢貞祇(中沢良之助)も同流の達人として知られていました。
なお、中澤琴自身は剣法もさることながら、前述の長刀や鎖鎌の達人として知られていたようです。中澤琴は武芸全般に秀でた女剣士だったのかもしれません。
中澤琴の名前が世の中に知られるようになるのは、文久3年(1863年)2月のことです。
この年、徳川家茂(14代将軍)が京都に上洛するのに伴い、その護衛のため江戸で浪士隊の応募がありました。
浪士隊の結成を幕府に献策したのは庄内藩出身の志士である清川八郎。清川八郎の献策で幕府が集めた浪士は約230名。
この中には、後の新撰組の中心メンバーである、近藤勇、土方歳三、沖田総司など多士済々のメンバーが含まれていました。
上洛を果たした浪士隊ですが、清川八郎の目的は徳川家茂を守ることではなく、尊皇攘夷を実行すること。
そのため清川八郎は上洛してほどなく浪士隊のメンバーを集め、本来の目的を伝えるとともに、多くの浪士と共に江戸へ舞い戻ってしまいます。
とろろで、この浪士隊の中にいたのが中澤琴の兄である中沢貞祇(中沢良之助)です。
中沢貞祇(中沢良之助)については浪士隊の名簿でその存在が確認されているので、浪士隊の一員として上洛をしたのは間違いないようです。
でも、中澤琴の名前は浪士隊の中に見つけることはできません。
中澤琴自身は浪士隊とともに上洛したと言われています。
でも女性だという理由からなのでしょうか。浪士隊の名簿に中澤琴の名前はなく、したがって中澤琴は正式には浪士隊に加入していなかったということになります。
恐らくですが、中澤琴は非公式に浪士隊と共に上洛をしたか、もしくは浪士隊とは別行動をとりつつ上洛をしたのではないでしょうか。
清川八郎は上洛を果たすとともに、江戸へ戻ることを宣言します。この行動に異を唱えたのが前述の近藤勇や芹沢鴨などです。
近藤勇たちは清川八郎と袂を分かち、ほどなくして京都守護職である松平容保の庇護を受けて、新撰組を創設します。
新撰組には女剣士がいたという噂があります。
おそらくこの噂の元になったのが中澤琴のようです。
しかし実際のところ中澤琴は新撰組には入っていません。
なぜなら、中澤琴も清川八郎が江戸にもどるときに行動を共にしているからです。中澤琴が京都にいたのは約2週間。
近藤勇など、後の新撰組のメンバーとは若干の接点はあったかもしれませんが、中澤琴が新撰組に加入した事実はないようです。
清川八郎は江戸にもどりました。しかし、清川八郎がとった行動は幕府から見たら裏切り行為。結果的に清原八郎は江戸にもどってすぐの4月に暗殺をされます。
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さて、清川八郎が亡くなった後の浪士隊です。
清川八郎が暗殺されたことで浪士隊も方向性を失いかけていましたが、その後、浪士隊の多くは幕府の警備組織である新徴組に加わります。
新徴組の役割は主に江戸市中の警備で、江戸幕府が消滅するまで江戸市中の治安を守る存在となっていました。。
中澤琴はこの新徴組に兄の中沢貞祇(中沢良之助)とともに加わっていたようです。
正式なメンバーとして加わったのかどうかはわかりませんが、江戸市中の見回りの一員に加わっていたと伝えられています。
ところで中澤琴ですが、容姿などはどうだったのでしょうか。
中澤琴の身長は五尺六、七寸程度。センチで表すと概ね170㎝。現在でも女性の170㎝は高い方ですが、江戸時代の170㎝は相当の長身であったはずです。
また、容姿は目鼻立ちの整った面長の美人と言われています。
中澤琴が浪士隊として上洛したとき、その姿は男装だったと言われていますが、江戸での見回り時も男装。他の人から見たら、長身でイケメンの武士。
そのため、中澤琴が男装をしているときは、どこに行っても女性からの人気は絶大であったと言われています。
また、女性の身なりで過ごしているときは長身ではあっても眉目秀麗。そのため男性からも言い寄られたことが多かったようです。
さて新徴組です。
新徴組の活動で最も有名なのは薩摩藩江戸藩邸に対する焼打ちです。当時から幕府と薩摩・長州は敵対していましたが、新徴組の焼打ち事件がきっかけとなり戊辰戦争が起こります。
この焼打ち事件に中澤琴も加わっていました。焼打ち事件で中澤琴の具体的な活躍ははっきりとしていませんが、このとき中澤琴は左足のかかとを斬られたという記録が残っています。
江戸幕府滅亡とともに新徴組の一部は江戸を離れて庄内藩に移ります。戊辰戦争の中で官軍の標的にされたのが東北の諸藩。
特に会津藩と庄内藩に対しては官軍より容赦ない攻撃が仕掛けられました。
この庄内藩の戦いにも中澤琴は参加をしています。戦いの中で中澤琴は官軍十数人に囲まれたが、敵の二、三人を切り伏せ、敵中を突破した。
そんな活躍ぶりが伝えられています。
庄内藩は官軍に降伏することになりますが、男装していた中澤琴は庄内でも多くの女性に騒がれていたようです。
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さいごに 戊辰戦争後の中澤琴
戊辰戦争後、中澤琴は明治7年(1875年)に、兄の中沢貞祇(中沢良之助)とともに故郷の利根郡にもどります。
このときの中澤琴は30歳代なかば。
当時としては結婚の適齢期を過ぎていますが、男装をする必要がなくなった中澤琴は多くの男性から結婚を申し込まれます。
そのとき、中澤琴が結婚の条件としてだしたのが、自分より強い者。
中澤琴と結婚したい男性は中澤琴に試合を申し込みますが、数多くの戦いを経験してきた中澤琴に勝てる男性は現れませんでした。
そのため中澤琴は生涯を独身で過ごすことになります。
中澤琴は晩年まで一人暮し。酒を飲むと詩を吟じて、剣舞をしたと伝えられています。
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