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平岩親吉関東移封後の運命の転変は無二の忠臣だったから

平岩親吉が居城とした犬山城
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平岩親吉とは

平岩親吉(ひらいわちかよし、1542年~1611年)は、徳川家康に仕えた武将です。

徳川家康が江戸幕府を創るまでに活躍した武将としては、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政のいわゆる徳川四天王があげられますが、平岩親吉はこの中に入っていません。

それでも、徳川四天王を含めた徳川十六神将の一人に数えられています。

平岩親吉は、それほど目立ちはしなかったけれど、徳川家の中ではしっかりと存在感を示していた武将と言えそうです。

この記事では、平岩親吉の生涯。

特に平岩親吉が関東移封後の運命の転変と、その理由についてお伝えします。

どうやら平岩親吉関東移封後の運命の転変は、平岩親吉が徳川家にとって無二の忠臣だったからと言えそうです。

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平岩親吉の生涯 関東移封前まで

平岩親吉は、徳川家康と同年の1542年に生まれます。

徳川家康の父松平広忠は西三河一帯を治める武将でしたが、有力大名の庇護を受けなければ生き残ることができない弱い立場でした。

実際、徳川家康(当時は竹千代)は今川義元の元で人質生活を送るようになり、その頃から平岩親吉も小姓として仕えています。

徳川家康の人質生活は10年以上に及びますが家臣はごく僅か。徳川家康と平岩親吉は主従ながらも濃密な時間を過ごしたことが分かります。

1560年の桶狭間の戦いで今川義元が討死し、徳川家康は人質生活から解放され、本拠地の岡崎城に戻ります。

その後の平岩親吉は、三河国を揺るがす三河一向一揆や、元は今川氏の領国であった遠江国への侵攻でも戦功をあげています。

さらに徳川家康の嫡男松平信康が1567年に元服すると、傅役に任じられています。

しかし1579年、織田信長の指示または徳川家康の考え、何れによるものかは不明ですが松平信康は切腹、徳川家康の正室で松平信康の母築山殿も死に追い込まれます。

松平信康の傅役であった平岩親吉も処分を求めたとされていますが、重い処分を受けることはなかったようです。

1582年に本能寺の変後に、徳川家康は甲斐国平定に踏み出します。この時も平岩親吉は、甲斐国の安定に尽力しています。

1590年、小田原征伐が終了すると、徳川家康は豊臣秀吉により関東移封を命じられます。

徳川家の新たな領地は京都や大坂より遠く離れた場所になりますが、石高は大幅に増加。

そのため、徳川家の家臣にも新たな領地が分配され、平岩親吉も厩橋3万3,000石(現在の群馬県前橋市)を与えられています。

晴れて大名になった平岩親吉ですが、関東移封後はさらなる運命の転変に見舞われます。

 
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平岩親吉の生涯 関東移封後から亡くなるまで

1600年に関ケ原の戦いが起こり、翌1601年、平岩親吉は甲府6万3,000石に移封されます。

1603年には徳川家康の九男徳川義直に甲斐25万石が与えられますが、徳川義直が幼少であったため、平岩親吉が甲斐国の統治の役割を担っています。

そして、平岩親吉に大きな運命の転変が訪れます。

1607年、徳川義直は甲斐国から尾張国に移封されます。

平岩親吉も犬山藩12万3,000石が与えられますが、合わせて任じられたのは徳川義直の附家老として尾張藩の政治をみることでした。

平岩親吉に与えられた領地は概ね倍増しています。普通ならば喜ぶところでしょうが、ここで平岩親吉には大きな運命の転変が訪れます。

甲斐国にいるまでは石高の多寡に関わらず、平岩親吉は徳川宗家の直臣でした。

しかし、徳川義直は徳川家康の実子で、徳川御三家ということで他の大名よりも重んじられていたとはいえ立場は徳川宗家の家臣です。

徳川宗家の家臣の家臣になった平岩親吉は、それまでの直臣から陪臣という立場に落ちてしまっています。

石高が増えたとはいっても立場が一段違えば、天と地ほどの違いがあります。いかに主君の命であっても、普通であれば納得できるような扱いではありません。

果たして、平岩親吉の心中はどのようなものであったのでしょうか。

その後、1611年になると平岩親吉は病死。平岩親吉には跡を継ぐ男子がいなかったため、平岩家は平岩親吉の死をもって断絶します。

 
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平岩親吉が尾張藩の附家老になった理由とは

平岩親吉は徳川家康と同年齢で、しかも徳川家康の人質時代から家臣として従っています。

また、戦場に出てもそれなりの戦功をあげていて、徳川家康の信任が厚かったのは間違いないところです。

ただ、武将としての評価は石高に現れます。

徳川家康が関東に移封されたとき平岩親吉に与えられたのは3万3,000石です。

一方、徳川四天王のうち当時まで現役で活躍していた、井伊直政には12万石、本多忠勝と榊原康政には各10万石が与えられています。

この3人と比較しても、徳川家康と最も長い時間接していたのは平岩親吉のはずですが、与えられた領土には大きな差がついています。

もしかしたらこのことは、平岩親吉の武将としての能力が一段落ちていたためなのかもしれません。

しかし、そのことをもって平岩親吉の人となりを決めることはできません。

先ほどあげた井伊直政、本多忠勝、榊原康政と平岩親吉の間には有名な逸話が残されています。

1584年の小牧長久手の戦いの後、徳川家康は豊臣秀吉に臣従します。

豊臣秀吉が天下を取り伏見城を築いた時、豊臣秀吉は築城祝いとして徳川家康には内密で、井伊直政、本多忠勝、榊原康政、平岩親吉にそれぞれ黄金100枚ずつ渡します。

このとき、本多忠勝と榊原康政はそのまま受け取り、徳川家康に報告しませんでした。

井伊直政は一旦受取り、徳川家康に報告。徳川家康は受け取ることを認めています。

それに対して平岩親吉は、自分の主君は徳川家康なので、主君以外の人物から黄金などを受け取ることはできないと断っています。

豊臣秀吉が4人の武将に黄金を渡したのは使者を介してだったので、角が立ったわけではないようですが、平岩親吉の行為は相当に勇気が必要だったものと考えられます。

武将としての器量は井伊直政、本多忠勝、榊原康政より劣るかもしれませんが、平岩親吉は正直な心を持ち、徳川家康に忠義を尽くした武将と言えそうです。

徳川宗家より一段下がるとはいえ、徳川御三家はとても大切な存在であり、藩政をしっかりとしていかなければならない。

それを全うするため、何よりも忠義が大切。平岩親吉は無二の忠臣であったからこそ、徳川義直の附家老になったものと思われます。

さいごに 平岩親吉亡きあとに徳川家康がしたこととは

生前から平岩親吉には後継者がいないことは分かっていました。

その状況を残念に思っていた徳川家康は、自らの子を平岩親吉の養嗣子とします。しかし、その子は早世したため平岩親吉には再び後継がいなくなります。

平岩親吉自身は、自分の死をもって平岩家が断絶することは納得していて、亡くなったら所領は徳川義直に譲ることを考えていたともいわれます。

それでも、徳川家康は平岩家が断絶することを惜しみ後継を探していたところ、平岩親吉の隠し子を探し出し、その子に平岩家を継がせようとします。

ただ、その子の母親が平岩親吉の子でないと固辞したため、徳川家康も諦めざるを得なくなり、平岩家は断絶したと言われています。

いかに幼いころから知っていたとはいえ、当時の徳川家康から見たら平岩親吉は陪臣の一人にすぎません。

それでも、徳川家康が平岩家の存続に尽力したのは、やはり異例のことです。

徳川家康にはもしかしたら平岩親吉を陪臣にしたことに対する心苦しさがあったのかもしれません。

ただ、陪臣にしたのは平岩親吉が無二の忠臣だったからというのは間違いないようです。

平岩親吉はどのような心持ちで、徳川家康・松平信康・徳川義直に仕えていたのでしょうか。

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