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目次
三好長慶とは
この記事では、三好長慶(みよしながよし又はみよしちょうけい)の生涯を簡単にお伝えしていきます。三好長慶は戦国時代を代表する武将の一人で、当時、室町幕府の実権を握っていた細川晴元を追放して三好一族による政権を樹立します。
そのため、戦国最初の天下人とも称されてもいます。
もっとも天下人であったのは僅かな期間で、三好長慶が亡くなった後の三好家は三好三人衆と松永久秀が対立。
最終的には織田信長が上洛し、三好三人衆は没落、松永久秀は戦いの中で命を落としています。
それでは、三好長慶の生涯を簡単にお伝えしていきます。
生没年
細川晴元 | 1514年~1563年 |
三好長慶 | 1522年~1564年 |
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三好長慶とは1 細川晴元に仕えるまで
三好長慶は、三好元長(みよしもとなが、1501年~1532年)の嫡男として阿波国(現在の徳島県)で生まれます。父の三好元長は、当時の室町幕府で絶大な権力を握っていた細川晴元の重臣です。
細川晴元が権力を握るまで尽力していた三好元長ですが、その権勢を恐れた細川晴元により暗殺されてしまいます。
当時、10歳にすぎなかった三好長慶は難を逃れ、一命をとりとめます。
しかし、細川晴元が周囲に敵を抱えるに伴い三好家の力が必要になり、三好長慶は細川晴元に仕えることになります。
父の三好元長を死に追いやった細川晴元に仕える。三好長慶はどのような心境だったのでしょうか。
三好長慶とは2 摂津国に進出するまで
細川晴元に仕えていた三好長慶ですが、時は戦国時代。細川晴元と三好長慶は、しっかりとした主従関係というよりも利害で結びついていた面が強かったようです。
当時の室町幕府の将軍は第12代足利義晴。
将軍が足利義晴、その下で実質的に政権を握っている管領細川晴元。
さらにその下の三好長慶という関係でしたが、細川晴元との関係がぎくしゃくすると、三好長慶は細川晴元ではなく、その上の将軍に近づいていきます。
細川晴元と三好長慶の関係が悪化すると、三好長慶は軍勢を率いて京都に入り、劣勢を悟った細川晴元は京都の中心部を離れます。
ただ、細川晴元が近隣の大名を味方につけるに及び、このままでは不利になると悟った三好長慶は和睦に応じています。
これだけ激しい動きを見せていた三好長慶ですが、この出来事は1539年、三好長慶が17歳の頃です。
結局は元のさやに納まった三好長慶ですが、変化したこともあります。
三好家は元々は阿波国を地盤とし、三好長慶自身も阿波国に生まれています。
しかし、この頃からは本拠地を摂津国(現在の大阪府と兵庫県の一部)に移し、摂津国守護代となっています。
また武力も強大となり、細川家も危惧を覚えるまでに成長しています。
三好長慶とは3 三好政権を樹立するまで
活動の場所を京都に近い場所に移し、軍事力も増強させた三好長慶でしたが、この時点では細川晴元と決定的対立をするまでには至っていません。むしろ、足利義晴と細川晴元の対立では、細川晴元の指示に従っています。
ところが、風向きが変わったのが1548年。
三好氏の一族に三好政長(みよしまさなが、1508年~1549年)という武将がいました。
三好長慶が本家ならば、三好政長が分家という立場で、2人とも細川晴元に仕えています。
しかし三好長慶は、三好政長が三好長慶の父である三好元長の暗殺に加担していたことを知ってしまいます。
そこで、三好長慶は細川晴元に三好元長追討の願いをだすものの、細川晴元はこれを拒否。
納得できなかった三好長慶は1549年に出陣し、三好政長を討ち果たします。
もっとも三好長慶の行為は、細川晴元から見たら謀反に匹敵するもの。
細川晴元は三好長慶討伐のため出陣しますが、戦いに敗れた細川晴元は足利義晴・義輝父子らを伴って近江国に逃れます。
三好長慶は細川晴元を廃して、細川氏の一族であった細川氏綱を擁立しますが、あくまでも傀儡政権。
三好長慶は細川政権を倒し、三好政権を樹立することに成功します。
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三好長慶とは4 三好長慶が戦国最初の天下人になるまで
1550年、近江国に逃れていた足利義晴が亡くなります。同じく近江国にいた細川晴元と足利義輝は、政権奪還を試みますがうまくいきません。
京都の治安を実質的に維持していたのは三好長慶です。
その後も、周辺の大名を巻き込みながら数多くの争いが繰り広げられましたが、終止符を打ったのは1558年。
和議を結んだ結果、足利義輝は京都に戻ります。ただし、実権はあくまでも三好長慶にあり、足利義輝はお飾りのような状態でした。
1560年より少し前の頃、三好長慶は幕府の実権を握るだけでなく、摂津・山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨など近畿圏や四国の一部を支配下に置いていました。
また1559年には、三好長慶の嫡男が足利義輝より「義」の字をいただき三好義長(後に三好慶興)に改名。
この頃になると、以前は管領として権力をふるっていた細川氏や畠山氏も三好長慶に屈する状態になります。
さらに1561年には河内と大和も支配下に置き、長年対立をしていた細川晴元とも和睦。
戦国時代の天下人といえば、織田信長・豊臣秀吉などを思い浮かべることが多いようですが、三好長慶もこの活躍ぶりから戦国最初の天下人と言われています。
三好長慶とは5 三好長慶の最期と三好政権の崩壊
戦国最初の天下人となった三好長慶ですが、その勢いは長くは続きませんでした。1561年には実弟の十河一存(そごうかずまさ、1532年~1561年)が亡くなります。
十河一存は和泉国を統治していましたが、その死により国が乱れ始めます。
また1563年には嫡男の三好慶興も急死します。
戦国最初の天下人となった三好長慶ですが、後の織田信長や豊臣秀吉のように、基盤は堅固なものではありません。
実際はあちこちで反三好の勢力が武装蜂起をしています。さらに、頼みとしていた肉親の相次ぐ死が追い打ちをかけます。
さらに1564年になると、三好長慶は弟の安宅冬康(あたぎふゆやす、不詳~1564年)を暗殺します。
これは三好長慶の家臣で三好家の中で権力を握っていた松永久秀の謀略とされていますが、一方では身内の相次ぐ不幸で、三好長慶自身が判断能力を失ってしまっていたためともいわれています。
三好長慶は後に松永久秀の謀略を知って後悔します。ただ、この頃になると病もさらに重くなり、弟の安宅冬康が亡くなったのと同じ年である1564年に亡くなっています。
さいごに その後の三好家
三好長慶が亡くなって後継となったのは、嫡男の三好慶興が亡くなった後に養子となっていた三好義継(みよしよしつぐ、1549年~1573年)です。
もっとも三好義継が若年であったため、三好家は三好長慶の時代から三好長慶を盛り立てていた三好三人衆と松永久秀が支えることになります。
この頃に行ったのは、三好三人衆と松永久秀の子である松永久通の子の松永久通(まつながひさみち、1543年~1577年)による、第13代将軍足利義輝の暗殺です。
しかし、三好三人衆と松永久秀はすぐに反目しあい、三好家は内紛状態に陥ります。
この状態を打開してのが織田信長で、織田信長が足利義昭を奉じて上洛したのに伴い、三好義継と松永久秀は織田方につき、三好三人衆は織田信長に敵対します。
そして、三好三人衆のうち三好宗渭は病没、岩成友通は戦死、三好長逸は行方不明となり、三好三人衆はその活動を終えます。
また三好義継も織田信長に敵対して1573年に自害。松永久秀も1577年に織田信長に敵対し自害します。
三好長慶は戦国最初の天下人と言われましたが、その期間はほんの数年。
また、三好長慶が亡くなって僅かな期間で、大名としての三好家も亡くなっています。
三好長慶は戦国最初の天下人と言われましたが、勢力範囲は近畿圏を中心とした地域に限られます。
また、天下人であった期間もわずかです。
そのため、天下人と言われながらも、その知名度は織田信長や豊臣秀吉には遠く及ばないのが実際のところです。
さらに言えば、知名度という点においては家臣の松永久秀の方がはるかに有名です。
果たして、三好長慶とはどのような人物だったのでしょうか。
三好三人衆と松永久秀
名前 | 読み方 | 生没年 |
三好長逸 | みよしながやす | 生没年不詳 |
三好宗渭 | みよしそうい | 不詳~1569年 |
岩成友通 | いわなりともみち | 不詳~1573年 |
松永久秀 | まつながひさひで | 1508年~1577年 |
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