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島津久光の評価をエピソードから考えてみました!

鹿児島の桜島
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はじめに

島津久光の評価をエピソードを交えてお伝えしていこうと思います。

まず最初に島津久光の略歴についてご案内をしていきます。

島津久光が生まれたのは1817年。

父は、薩摩藩第10代藩主である島津斉興。

母は、島津斉興の側室であるお由羅の方。

兄には、薩摩藩第11代藩主である島津斉彬がいます。

島津久光は、島津斉興の第5男で、母は側室です。

薩摩藩主の子であっても、島津久光が薩摩藩主になることはほとんど考えられませんでした。

ところで、1858年に兄の島津斉彬が亡くなりましたが、島津斉彬には後継者たる子がいない状態でした。

このとき、薩摩藩第12代藩主となったのは島津忠義。島津忠義は島津久光の実子であるとともに、島津斉彬の養子となっていたことから、島津斉彬の後の薩摩藩主は島津久光の子がその座についています。

もっとも島津忠義は年少。そのため薩摩藩の実権は、島津忠義の父である島津久光が担うことになります。

幕末における薩摩藩の活躍ぶりはとりわけ有名ですが、これは島津久光の力によるところが大きかったのかもしれません。

明治を迎えて、世の中は大きく変わっていきます。特に廃藩置県によって、それまでの藩主が存在しなくなりました。

島津久光は新しい制度に対して批判的であったと言われていますが、明治政府に背を向けることはあっても、明治政府を倒そうというまでの意志はなかったように見受けられます。

明治政府もとりわけ島津久光には気を遣っていたようで、叙位・叙勲などについては常に最上級の待遇を受けています。

島津久光が亡くなったのは1887年。享年71で、葬儀は国葬として営まれています。

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島津久光の評価1 お由羅騒動

薩摩藩第11代藩主である島津斉彬は、簡単にその座に就けたわけではありません。

薩摩藩第11代藩主である島津斉興は、側室であるお由羅の方を寵愛し、2人の間に生まれた島津久光を藩主の座に据えようと考えます。

しかし、普通に考えれば無理な話。案の定、薩摩藩は2つに分かれ、多くの藩士が命を落としています。

結果的に幕府の介入もあり、薩摩藩主には島津斉彬が就くことになりますが、大きな禍根は残ってしまったようです。

そのような背景から島津斉彬と島津久光の関係は険悪であったとも言われています。

しかし、お由羅騒動の結果として島津久光は何の処分も受けてはいません。確かに島津斉興は島津久光を後継にしようと画策していましたが、あくまでも島津斉興と島津斉彬の親子の対立であり、お由羅騒動で島津久光は埒外に置かれていたとも言われています。

そのため島津斉彬と島津久光の間には禍根などはなく、むしろ島津斉彬は島津久光の学識が豊かなことを評価していたとも言われています。

また、島津久光も兄である島津斉彬を尊敬していて、島津斉彬が亡くなった後も、島津斉彬の遺志を継ごうとして様々な動きを見せています。

お由羅騒動により歪められているような感がありますが、島津久光は兄の言う通り学識豊かで、兄のことを尊敬する好人物という評価がされても良いように思われます。

島津久光の評価2 西郷隆盛との関係

島津久光と西郷隆盛の関係は、とても悪かったことで知られています。また、西郷隆盛は度量の広さが人気の理由の一つですが、度量の広い西郷隆盛と対比させるような形で島津久光は度量が小さい。

西郷隆盛との若干悪意ある対比が、島津久光の評価を決定づけている部分があるように見受けられます。

島津久光と西郷隆盛の仲の悪さについては、2つのエピソードが知られています。

1つ目のエピソードは、1862年2月、島津久光が西郷隆盛を呼び出したときのことです。

当時は、前藩主の島津斉彬が亡くなり、島津久光が薩摩藩の実権を握っていた頃です。島津久光は兄である島津斉彬の遺志を継ぐべく上洛を考えていて、その上洛について西郷隆盛の意見を聞こうとしていました。

しかし、西郷隆盛は島津斉彬が上洛を考えていたときと今では全く状況が異なること。仮に上洛をするのであれば、朝廷や幕府と綿密な調整が必要なのに、その準備をしていないこと。さらに、島津斉彬は官位を持っていたのである程度の調整は可能だが、無位無官の島津久光にそれは無理であること。

(一説に西郷隆盛は島津久光に対して、「(島津久光は無位無官の)ただの三郎どんでごわす」と語ったとも伝えられています。)

そして、最後にそのようなことを知らない島津久光は「じごろ」(田舎者)にすぎないことと、西郷隆盛は島津久光のことを痛切に批判をしています。

2つ目のエピソードは、1864年のことです。

前述の面談で島津久光は激怒しましたが、西郷隆盛は欠かせないほどの大きな人物となっていたため、そのとき処分されることはありませんでした。

しかし、その後も島津久光の意向に反した行動をとり続けた西郷隆盛は、流罪に処せられてしまいます。

1862年6月に流罪となった西郷隆盛ですが、薩摩藩にとって必要な人物であることは間違いありません。そのため、1864年には家臣の嘆願もあり遠島の処分を解くことになりました。

その赦免の決定をするとき、島津久光は銀のキセルをくわえていましたが、後になってみるとキセルには島津久光の歯型がしっかりと残っていたと言われています。

この2つのエピソードを見る限り、島津久光と西郷隆盛の関係は険悪であったと言わざるをえません。

そして、この2つのエピソードは度量の広い西郷隆盛と、度量の狭い島津久光の対比を鮮明にし、島津久光の評価を下げる大きな要因となっています。

しかし考えてみたら、島津久光は主君ではなくても主君の父であり、西郷隆盛は世の中でどれほどの影響があったとしても薩摩藩の一家臣に過ぎません。

普通に考えれば西郷隆盛は良くて切腹。悪くすれば斬首。当時の常識を考えたら、むしろ厳しい処分があっても不思議ではありません。

でも西郷隆盛はそうはならなかった。

そのあたりを考えると、島津久光は客観的にものごとを考えられる人物。あるいは、度量が相当に広い人物という評価があってもおかしくはないように思えます。

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島津久光の評価3 明治維新後

江戸幕府が崩壊した直後の島津久光の発した言葉はエピソードとしてよく知られています。

それは、「私はいつ征夷大将軍になるのだ」という言葉です。この言葉は、島津久光の評価を大きく下げる要因となっています。

確かに現代から見れば、島津久光の言葉は時代を全く読めていない言葉とも考えられます。しかし、島津久光は武家。しかもいわゆる「お殿様」です。徳川家が倒れれば、次は島津家と考えても不思議はありません。

その後、1871年に廃藩置県が行われた時のこと、全国の大名がこの命令に従順に従ったのに対して島津久光だけは激怒。抗議の意を込めて自邸の庭で一晩中花火を打ち上げさせています。

これも今考えると幼稚な行為のようにも見えますが、廃藩置県に対して唯一気概を見せた人物ととらえることもできます。

また、明治維新後は廃藩置県だけでなく廃刀令なども出されていますが、島津久光は生涯髷を切ることなく、帯刀や和装をやめなかったと言われています。

明治維新後の島津久光をエピソードを見ると、島津久光は時代をはっきりと読む力はなかったかもしれません。でも、自分なりの意志を貫く芯の通った人物という評価ができるようにも思われます。

島津久光の評価4 西南戦争時

1867年、明治政府と鹿児島の私学校との間で西南戦争が起こります。明治政府の中心人物は大久保利通、私学校の中心人物は西郷隆盛という図式になります。

明治政府樹立に尽力した薩摩藩の大久保利通と西郷隆盛が、敵味方として戦ったのが西南戦争です。

西南戦争当時、島津久光は鹿児島にいました。明治政府は島津久光が私学校を支援することを恐れ、上京を促します。しかし、島津久光は中立の立場を表明したうえで、上京を拒否。

ただし、四男や五男を京都に赴かせて明治政府に反意がないことを示すとともに、西南戦争で危険が及ぶのを避けるため一族を桜島に避難をさせています。

このことから島津久光は火中の栗を拾うことなく冷静に対処をして、一族の存続に意を尽くしたと考えることもできそうです。

まとめ

城山から見た桜島
この記事では、島津久光の評価をエピソードを交えてお伝えしてきました。

島津久光の評価は、一般的に高いとは言えないようです。その原因はやはり西郷隆盛。西郷隆盛が光に対して、島津久光は影のような存在だったからでしょうか。

西郷隆盛の有能に対して、島津久光は無能。あるいは、西郷隆盛の器量の大きさに対して、島津久光は狭量。島津久光の評価はそのようにとらえられてしまうことも多いようです。

しかし、果たしてそうでしょうか。

島津久光は兄である島津斉彬に対して、兄を尊敬し、さらに兄の遺志を継ごうとしていたと言われています。真面目で律義な人物のように見受けられます。

島津久光と西郷隆盛の関係については、家臣である西郷隆盛を厳しく処断してしかるべきなのに西郷隆盛を赦しています。島津久光は客観的な判断力を持っていて、さらには西郷隆盛の働きを容認する器量の大きい人物だったように見受けられます。

島津久光の明治維新の言動・行動については、殿様らしい世情に疎い部分もあったが、気骨があり芯が通った人物だったように見受けられます。

島津久光の西南戦争時の行動については、一族の存続を図るべく冷静に対応した人物だった。そのように見受けられます。

島津久光の評価は一般的には低いようにも思われますが、この記事ではエピソードを交えたうえで島津久光はもっと評価されてしかるべき人物。そのようなスタンスで文章を進めてきました。

島津久光、果たしてどのような人物だったのでしょうか。

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