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日本史

織田信長の城の場所はどこ?時系列で6か所の特徴をご紹介します

岐阜城の復興天守

織田信長の城を時系列でご紹介

織田信長はその生涯の中で、居城を何回か変えたことが知られています。

この記事では、織田信長が生活をした城6か所の場所と、それぞれの城の特徴を簡単にご紹介していきます。

また、織田信長がどうしてそこを居城としたのか、その理由なども合わせてお伝えをしていきます

織田信長の城1 勝幡城

場所愛知県稲沢市平和町城之内付近
織田信長が生まれたのは1534年。

生年ははっきりしていますが、生まれた場所については、勝幡城や那古野城など複数の説があります。

もっとも最近では勝幡城説が有力になっています。

勝幡城(しょばたじょう)は、織田信長の祖父である織田信定(おだのぶさだ)により築かれたと考えられています。

織田信定の子の織田信秀も勝幡城を居城としていましたが、織田信秀は織田信長が生まれる少し前の1532年に、今川氏より奪い取った那古野城に移り、勝幡城には城代が置かれます。

さらに織田信秀は居城を名古屋城から清州城へ移し、それまでの城代も別の城に移したことで勝幡城は廃城になっています。

後年の織田信長は、様々な創意工夫でそれまでの城の概念を崩していきますが、勝幡城は生まれただけの城。

この城に織田信長の考えは入っていません。

ただ織田信長の父織田信秀も戦国武将として有能さが知られていて、経済力も豊かであったようで、勝幡城の規模は大きく完成度も高かったと伝えられています。

織田信長の美意識の高さは父譲りだったのかもしれません。

なお、勝幡城は早い段階で廃されたため、現在残るのは勝幡城址の石碑(稲沢市指定文化財)のみとなっています。

織田信長の城2 那古野城

場所愛知県名古屋市中区二の丸1
那古野城(なごやじょう)は今川氏が築城したものですが、その後、織田信秀が今川氏から奪い取り、一時期織田信秀が居城としています。

しかし、まもなく織田信秀は清州城に居城を移し、その後に入ったのが織田信長と言われています。

当時の織田信長は1歳か2歳の頃で、20歳になるころまで那古野城で生活することになります。

なお、織田信長が居城を那古野城から清州城へ移したのは1555年。那古野城はしばらくして廃城になっています。

その那古野城が再び脚光を浴びるのは江戸時代の初期。

江戸幕府を創設した徳川家康が、この地に着目して新たに築いたのが名古屋城です。

もっとも名古屋城の規模は那古野城よりはるかに大きなもの。那古野城址を示すものは、名古屋城二ノ丸の城址碑のみとなっています。

織田信長が生まれたのは勝幡城。

少年期を過ごしたのは那古野城。

ただ、どちらも織田信長の意思で行ったものではありませんし、織田信長の個性が城に活かされていたわけではなさそうです。

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織田信長の城3 清洲城

清洲城の模擬天守
場所愛知県清須市朝日城屋敷1-1
清洲城のある場所は当時の尾張国の中心と目され、交通の要衝でもありました。

清州城を築いたのは尾張国守護の斯波氏で、築城されたのは1405年とされています。

その後、斯波氏の勢力が衰えるとともに、清州城は注目の場所となっていきますが、ここを居城にしたのが織田信秀です。

しかし織田信秀が急死したのに伴い、嫡男である織田信長が清州城を居城としています。

当時の織田信長は嫡男といえども、跡目の争いがあり盤石なものではありませんでしたが、織田信長は織田家の内紛を収めただけでなく、尾張国の統一を果たしていきます。

織田信長が清州城へ移ったのは1555年。

織田信長が清州城から小牧山城へ移ったのが1563年の頃。

この間の織田信長は織田家の内紛を鎮め、尾張国を統一し、さらには1560年の桶狭間の戦いでは今川義元を討ち果たしています。

織田信長は飛躍の第一段階を清州城で過ごしています。

織田信長が居城を清州城に移した際、大改修が行われていますが図面は残っていません。

また名古屋城ができたことにより、1613年に清州城は廃城になっています。

現在、清州城は鉄筋コンクリート造で建設されたものがありますが、これはあくまでも想像で造られたもので、往時の姿を示すものではないようです。

少年期を脱し、青年期を迎えた織田信長が大改修を行った清州城。

史料が残っていれば、さまざまな創意工夫の痕跡が分かったかもしれませんが、残念ながらそのあたりははっきりとしていません。

織田信長の城4 小牧山城

場所愛知県小牧市小牧町字八幡前
織田信長が初めて造った城が小牧山城です。

築城の目的ははっきりとしていて、小牧山城は隣国美濃国を攻略するための足掛かりとするための城です。

桶狭間の戦いで今川義元を破った織田信長は、織田家と今川家の間にあった松平家と同盟関係を結びます。

そのため尾張国以西は、松平家が今川家の脅威を取り除く立場になります。

織田信長にとって次の敵は尾張国に接する美濃国。

織田信長は美濃国の斎藤道三の子の濃姫を正室に向かい入れ、美濃国とは同盟関係にありました。

しかし斎藤道三は子の斎藤義龍に敗れ亡くなり、このことをきっかけに織田家と斎藤家は敵対関係に陥ります。

美濃国の攻略を考える上で清州城は遠すぎます。そこで、より美濃国に近い小牧山に城を造ることになりました。

結果的に織田信長が小牧山城を居城にしたのはたった4年間です。また小牧山は標高86mの小高い山です。

居城とした期間が短いこと。小牧山城は小高い山の上に造った平山城であることから、長い間、小牧山城は土塁による簡素な城と考えられていました。

しかし近年の発掘調査で、小牧山城には石垣があることが分かっています。

当時の常識でいえば平山城は土塁の上に造ることが常識です。

ところが土塁ではなく石垣。

その石垣も単純に石を積み重ねたものではなく、その後の石垣の模範となるようなしっかりとした石組で造られていました。

さらに石垣だけでなく、町割りもしっかりとなされています。

織田信長が小牧山城にいたのはたった4年。

美濃国を手中にした織田信長は居城を岐阜城に移したため、小牧山城は役割を終え廃城となっています。

ところで、どうして織田信長は土塁ではなく石垣を造ったのでしょうか。

小牧山は標高が高い山ではありませんが、それでも山であることに間違いはありません。

土塁ならば比較的短期間で築城できますが、石垣は石を切り出す必要があります。

さらにその石を山まで運び、さらには計算しながら石組みをする必要があります。

時間もお金もかかるのが石垣です。

織田信長の後の築城を考えると、小牧山城を石垣にしたのは美意識によるものが大きかったと考えられます。

しかし、それだけでなく石垣には敵を屈服させるような威圧感もあったのではないでしょうか。

石垣の存在を知った敵の武将は、織田信長の持つ労働力と財力に気が付いたはずです。

そのことを考えると小牧山城の石垣は、織田信長の美意識だけではなく、敵を屈服させる力もあったように思われます。

何れにしても小牧山城の石垣は、この後の織田信長の築城術の基本になっていくようです。

 
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織田信長の城5 岐阜城

場所岐阜県岐阜市金華山天守閣18番地
小牧山城を拠点に美濃国の攻略を開始した織田信長は、1567年に斉藤龍興を追放し美濃国を治めます。

そこで行ったのが岐阜城への移転です。

それまで、当時の地名であった井ノ口という地名と、稲葉山城と言われていた城の名前を、それぞれ岐阜と岐阜城に改めています。

また、岐阜城は既にできていた城なので初めから造りなおすことはことはありませんでしたが、大改修は行っています。

この大改修でもっとも注目されるのは瓦の使用です。

当時は城の屋根に瓦を使うことは少なかったといわれていますが、織田信長は屋根を瓦に吹き替えるだけでなく、その瓦に金箔を施しています。

また、岐阜城は急峻な山の上に築かれた城ですが、麓には迎賓館のような建造物があったといわれています。

現在の天守は1956年に造られた鉄筋コンクリート製で、織田信長の時代に天守があったかどうかは定かではありません。

しかし、織田信長が岐阜城に居城を移した理由ははっきりとしています。

この頃から織田信長は「天下布武」の印を用い始めていますが、京都への上洛は織田信長の大きな目的の一つで、その目的を達成するために岐阜城は地理的に有利な場所にありました。

また、織田信長が岐阜城を大改修したことにも理由があります。

それは、城に瓦を用い、さらに金箔を張り付ければ、遠くからでも威容ははっきりとします。

織田信長は武力と財力を見せつけるために、本来、そこまでは必要のない大改修に踏み切ったものと考えられますし、小牧山城と同じく自らの美意識を発揮させたかったのではないでしょうか。

織田信長が岐阜城を居城としたのは1567年から1579年まで。約12年の間に、織田信長は天下統一の一歩手前までこぎつけています。

織田信長の城6 安土城

安土山の遠景
場所滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
天下統一の一歩手前までこぎつけた織田信長が築城に取り掛かったのが安土城です。

安土城は美濃国と京の間にあり、交通上の要衝の地です。また琵琶湖のほとりにあるため水運にも恵まれた土地でした。

そこに織田信長が築いたのが、後の天守閣につながる「天主」という建造物でした。

天主は外観は五層、内部は七層の複雑な構造物で、外装は下から黒・朱・金箔が施され、屋根瓦も金箔を中心に複数の色で装飾をされています。

戦国時代の城は基本的には防御のためのものです。

したがって、山の上の見晴らしの良い場所に、改めて装飾が施された高い建物を造る必要性はありません。

安土城の天主の目的は、岐阜城と同じように織田信長の威容を見せつけるために造ったものなのかもしれません。

また、織田信長は安土城完成後、入場料を徴収して城を見学させたり、あるいはかがり火をたいて日本初のライトアップを行ったりもしています。

安土城の天主は魅せる城づくりをした織田信長の集大成になっています。

ところで、安土城は標高200mの安土山に築城をしています。

安土城のある場所は確かに交通の要衝であったかもしれませんが、天下を収めるには最善の場所とは言えませんでした。

安土城は織田信長の理想の最終形ではなく途中経過であったようにも思われます。

織田信長が城づくりの理想とした場所は、後に天下統一を果たした大坂城であったともいわれています。

もっとも、当時その場所には石山本願寺があり、織田信長もそこに踏み込むまでには至っていませんでした。

織田信長が安土城に移って3年後の1582年に本能寺の変が起こり、織田信長は最期を迎えます。

また直後には、天主と本丸は火災により焼失をし、さらに1585年に安土城は廃城になっています。

さいごに

この記事では、織田信長が生活をした城の場所と、それぞれの城の特徴を簡単にご紹介してきました。

また、織田信長がどうしてそこを居城としたのか、その理由なども合わせてお伝えをしてきました。

織田信長は生まれてから亡くなるまで6つの城を居城にしてきました。

戦国大名といえども、これだけ城を移り変わった人物はそれほど多くはありません。

ただ織田信長には天下を統一するという大きな目的がありました。

まず尾張国を統一するため居城としたのが清州城。

美濃国を手に入れるため居城としたのが小牧山城。

京都に上洛するため居城としたのが岐阜城。

そして天下統一のスピードを上げるため居城としたのが安土城です。

また、織田信長は城を移り変わるたび、その城に対して創始工夫を重ねてきました。

小牧山城では石垣を造り、岐阜城には金箔の瓦を用い、安土城では天主を造っています。

これは織田信長の威容を見せつけるという目的があったのは確かですが、合わせて織田信長の美意識の高さをうかがい知ることもできます。

織田信長は目的の一歩手前で横死をしています。

そのため織田信長の居城の最後は安土城になっていますが、果たして織田信長の城づくりの最終形はどうなっていたのでしょうか。