スポンサーリンク
土岐頼芸の生涯をご紹介します
この記事では、土岐頼芸(ときよりのり、1502年~1582年)の生涯を、簡単にお伝えしていきます。土岐頼芸は鎌倉時代から続く土岐氏の一門で、一時は美濃国の守護大名として知られる存在になります。
もっとも、土岐頼芸は長らく続いた名門の一族に生まれたためか、武よりも文に秀でた武将として有名です。
土岐頼芸の文人としての評価を高めているのが鷹の絵で、土岐頼芸が描いた鷹の絵は「土岐の鷹」として知られています。
土岐頼芸の生まれた時代が平穏な時代であれば、土岐頼芸は鷹の絵に秀でた文人大名として名前を残したかもしれません。
しかし、土岐頼芸が生きたのは戦国時代。しかも土岐頼芸が守護大名となったのは美濃国。
美濃国は、当時の政治の中心である京都とは近い場所にあり、多くの戦国大名が注目する場所でもありました。
この記事では、美濃国の守護大名になりながらも、やがて没落し、守護大名としての土岐家を滅亡に追い込んだ土岐頼芸の生涯を、簡単にご紹介していきます。
スポンサーリンク
土岐頼芸が美濃国の守護大名になるまで
土岐頼芸は、美濃国の守護大名土岐政房(ときまさふさ、1457年~1519年)の次男として生まれます。次男なので土岐家の家督を継ぐことは考えられないはずですが、必ずしも長子相続ではなかった戦国時代。
父の土岐政房は、長男の土岐頼武(ときよりたけ、生没年不詳)よりも、次男の土岐頼芸を溺愛。
しかも土岐政房は美濃国の守護大名とは言いながらも、美濃国は守護大名の土岐氏と、守護代の斎藤氏やその下の長井氏が覇権を争っているという状態。
土岐氏は守護大名の立場は維持しながらも、実質は内乱に近いような状態でした。
そのため土岐政房の後継として、長男の土岐頼武を推す一派と、次男の土岐頼芸を推す一派は、常に緊張状態にありました。
土岐頼武と土岐頼芸が最初に衝突したのは1517年。
この時は土岐頼武が勝利したものの、翌1518年には逆に土岐頼芸が勝利し、土岐頼武は越前国の朝倉氏の元に身を寄せます。
また、この頃、父の土岐政房が死去。
土岐頼芸は兄の土岐頼武に勝利し、兄を越前国に追いやりましたが、まだこの段階では土岐頼芸が守護になるまでには至っていません。
美濃国は、守護がいない状態になります。
その後、朝倉氏の助勢を得た土岐頼武は美濃国に戻り土岐頼芸に勝利。結果として1519年に土岐頼武が美濃国の守護に収まります。
しかし兄弟の争いはまだまだ続きます。
土岐頼武が美濃国の守護になって、しばらくたった1530年。土岐頼芸は土岐頼武に対して挙兵し今度は勝利。
兄の土岐頼武を再度越前国に追放し、土岐頼芸は実質的に美濃国の守護になります。
もっとも守護を任じるのは室町幕府。土岐頼芸が任官して正式に美濃国の守護になるのは1536年のことです。
土岐頼芸が美濃国を追放されるまで
美濃国の守護は土岐氏であるものの、実際は土岐氏に仕える斎藤氏や長井氏が権力を握り、美濃国は複雑な状況にありました。土岐頼芸は美濃国の守護になったものの、それは土岐頼芸一人の力というよりも、多くの人がそれぞれに野心を抱いて土岐頼芸を担いだからにすぎません。
その代表的人物が斎藤道三です。
斎藤道三が土岐頼芸に重用されるようになるのは、土岐頼武が美濃国の守護であった1520年代であったと思われます。
土岐頼芸と斎藤道三の主従の関係を示すのに、最も有名なのは深芳野の存在です。
深芳野は元々土岐頼芸の愛妾でしたが、後に斎藤道三の側室になります。
土岐頼芸はそれだけ斎藤道三を重用していましたが、斎藤道三の目的は美濃国を乗っ取ること。
1542年、土岐頼芸は斎藤道三との権力闘争に敗れ、尾張国に逃れます。
その後、尾張国の織田信秀や越前国の朝倉孝景の援助を受けて、土岐頼芸は一時的に美濃国の守護に返り咲きます。
しかし1552年には斎藤道三により再び追放され、守護大名としての土岐氏は滅亡します。
■合わせて読みたい
スポンサーリンク
土岐頼芸が亡くなるまで
美濃国を追放された後、土岐頼芸は近江国・常陸国・上総国・甲斐国を転々とします。土岐頼芸が流転生活の中で、どのような境遇に置かれていたのかは定かではありません。
ただ名家の生まれで、一時は守護大名を務めていたほどなので、生活に困窮するということはなかったのではないでしょうか。
土岐頼芸が再び世の中に出てくるのは1582年。
織田信長が武田勝頼を滅亡に追い込んだ時、武田家で暮らしていた土岐頼芸が発見されます。
その後、以前は土岐家に仕え、当時は織田家に仕えていた稲葉一鉄により美濃国に戻され、約半年後に81歳の生涯を閉じています。
さいごに
この記事では、一時は美濃国の守護大名にもなった土岐頼芸の生涯をお伝えしてきました。
土岐頼芸は、名族土岐氏の出身で守護大名にもなっています。
土岐頼芸の名前を有名にしたのは、斎藤道三の存在があったためです。
斎藤道三は「美濃の蝮」という異名を持っていましたが、その餌となったのが土岐頼芸です。
土岐頼芸は斎藤道三との対比によって、歴史に名を残したと言っても過言ではないように思われます。
もっとも土岐頼芸が生きたのは戦国時代。実際に美濃国も騒乱状態にありました。
斎藤道三という存在がなくても、土岐頼芸は美濃国の守護を務めることはできなかっただろう。
推測にすぎませんがそのように思えます。
土岐頼芸は鷹の絵で有名なように一芸に秀でた人物です。時代が異なっていたら、別の意味で歴史に名を残せたかもしれないですね。
スポンサーリンク
スポンサーリンク