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濃姫の生涯の終わりはいつ?
織田信長の正室である濃姫(のうひめ)。この記事では、今でも謎とされている濃姫の生涯の終わりについて、3つの説をご紹介します。
日本の歴史上、もっとも有名な人物の一人としてあげられる織田信長。
ところが、これだけ有名な人物にも関わらず、織田信長については分からないことがたくさんあります。
その一つが正室です。
織田信長の正室は濃姫と伝えられていますが、濃姫についてわかっていることは、ほんの少しです。
特にわからないのは濃姫の最期。織田信長の正室である濃姫の生涯の終わりはいつだったのでしょうか。
織田信長の正室と伝えられながら、謎に包まれた女性として有名なのが濃姫です。
濃姫について分かっていること
濃姫は出自がはっきりとしているため、前半生についてはある程度のことがわかっています。具体的には
○ 濃姫は、戦国武将斉藤道三の子であること。
○ 濃姫が生まれたのは1535年で、元は帰蝶(きちょう)という名前であったが、織田信長の正室になって濃姫(のうひめ)と呼ばれるようになったと考えられること。
○ 織田信長の正室になったのは1549年であること。
また、推測の域を出ませんが
○ 織田信長と濃姫の間に子は生まれなかったこと。
このあたりまでは分かっています。
ただ、濃姫に子ができなかったことが影響しているのでしょうか。濃姫が織田信長の正室となった後の記録はほとんど残されていません。
また、実家の斉藤家もその後滅亡したため、こちらの記録もありません。
さらに濃姫について記載されている文書はいくつかあるようですが、この中に第一級の史料はないとも言われています。
そうしたいくつかの要因が重なって、織田信長の正室でありながら濃姫の生涯、特にいつ最期を迎えたのかについては謎に包まれています。
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濃姫の生涯の終わりの3つの説
濃姫が、いつ生涯の終わりを迎えたのかはわかっていません。
そのため濃姫の最期については様々な説が飛び交っていて、現在は次にご紹介する3つの説が有力になっています。
① 桶狭間の戦いの前に亡くなった
② 本能寺の変の時に亡くなった
③ 江戸時代に入り亡くなった
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濃姫の生涯の終わり1 桶狭間の戦いの前に亡くなった
濃姫が織田信長の正室になった後の記録はほとんどありません。言い換えると、濃姫は織田信長の正室となったものの、それほど時間を経ずに正室ではなくなった可能性があります。
そう考えると、濃姫の記録がない原因もすっきりとします。
ではいつ正室でなくなったのか。また、いつ最期を迎えたのか。これについては、織田信長と斎藤家との関係がポイントになりそうです。
斉藤道三と織田信長は、政略結婚により義理の親子という関係で結ばれていました。
しかし、斉藤道三は子の斉藤義龍により殺害され、さらに斉藤義龍死亡後は龍興の代となります。
斎藤家と織田家はこの段階で断絶状態となり、政略結婚も意味合いが薄れてしまいました。
濃姫が桶狭間の戦いの前に亡くなった説としては、織田信長と結婚したが、ほどなく病死した。
あるいは、斎藤家との間が不和になったことで濃姫は織田家により殺された。
そのような説があります。
また、濃姫は織田信長と離縁した後、母方の実家に戻ったがそこで病死した。あるいは実家を斉藤義龍に攻められて亡くなった。
そんな説もあるようです。
この場合、濃姫が生涯の終わりを迎えたのは桶狭間の戦いの4年前となる1556年。濃姫22歳の頃となります。
濃姫の生涯の終わり2 本能寺の変の時に亡くなった
濃姫が本能寺の変で亡くなった説は、おそらくですが司馬遼太郎氏の「国盗り物語」により一躍有名になったものと考えられます。確かに古文書の中には、そうしたことをうかがわせる記述もあるようです。
しかし、本能寺の変で亡くなったのは濃姫ではなく、濃姫に似た名前の侍女「のう」だったという説もあります。
何とも言えませんが、濃姫は本能寺の変の時に生涯の終わりを迎えたという説は、少しばかり弱いように見受けられます。
濃姫の生涯の終わり3 江戸時代に入り亡くなった
濃姫は江戸時代に入るまで生存をしていた。昨今は、この説が最も有力なようです。本能寺の変のとき濃姫は安土城にいて、本能寺の変直後に蒲生氏郷の領地に避難をした。さらに、その後は織田信長の嫡孫の居城である岐阜に住んだと伝えられています。
ただ、嫡孫の織田秀信は関ヶ原の戦いで西軍につき、戦後改易されているので、その後の居所はよくわかっていません。
一説には、織田信長の次男である織田信雄の元に身を寄せていたとも言われています。
織田家の過去帳に信長公御台(みだい)が1612年に亡くなったとあります。この信長公御台が濃姫をさすのかどうかについてもはっきりとしていません。
仮にこの人物が濃姫だとしたら、濃姫は江戸時代に入り78歳頃に亡くなったことになります。
まとめ
織田信長の正室である濃姫の生涯の終わりについて語られている、3つの説を簡単にご紹介してきました。
もちろん、どれが正解なのかはわかりません。
また帰蝶という名前はともかくとして、濃姫については美濃からきた姫という意味で正式な名前ではなかったという説もあります。
濃姫は織田信長の正室でありながら、わからないことがたくさんありますが、だからこそ歴史が楽しいのかもしれないですね。
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