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西郷星と桐野星と西郷隆盛生存説をまとめてご紹介します

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はじめに

幕末維新の立役者となった西郷隆盛。

この記事では、西郷隆盛にまつわる伝説。西郷星(さいごうぼし)・桐野星(きりのぼし)、そして西郷隆盛生存説をまとめてわかりやすくご案内をしていきます。

ごく簡単に言ってしまうと

 

★ 西郷隆盛の死を悼んで生まれたのが西郷星や桐野星

★ 西郷隆盛の死を信じることができない人たちが生み出したのが西郷隆盛生存説

 

になります。

また、西郷隆盛生存説は、後世、ある大事件の引き金ともなっています。記事の最後の方で、その大事件についてもご紹介をしていきます。

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西郷隆盛最期のとき

倒幕の大きな原動力となった西郷隆盛ですが、明治維新後はむしろ鬱屈した時間を過ごすことが多かったと言われています。そして明治6年の征韓論で敗れ下野した後は、故郷の鹿児島に戻り半ば隠遁した生活を送っていました。

しかし、人望の厚かった西郷隆盛を周囲が放っておくはずもありません。

結果的に桐野利秋や篠原国幹など西郷隆盛を信奉する人々に担ぎ出されて、西南戦争の首魁者に祀り上げられてしまいます。

西南戦争は半年以上続きましたが、結果的に西郷隆盛は追い詰められて鹿児島城下の城山で亡くなります。

亡くなったのは、明治10年9月24日(享年49)。西郷隆盛の首は隠されていましたが、戦争終結後に発見され手厚く葬られたと言われています。

西郷星と桐野星の伝説とは

西郷星と桐野星?
西郷隆盛の死の間際から囁かれていたのが西郷星の存在です。

西郷隆盛が亡くなったのは前述のとおり9月下旬のことですが、それより1か月ほど前から東京では南の空に大きな星が輝くようになって人々が大騒ぎをしたと言われています。

また、人々はその星の中に西郷隆盛の顔を見出しました。そのため、この星は西郷星と名付けられて、さらに多くの注目を集めるようになりました。

西郷隆盛は多くの人々に慕われていましたが、特に幕府の瓦解に際して江戸城無血開城に導いた人物。江戸の庶民から見たら西郷隆盛は江戸の町を火災による焼失から救った人物でした。

そのため東京の人々の間で西郷隆盛は絶大な人気を誇っていました。西南戦争で西郷隆盛側が追い詰められたことを知っていた東京の人々が西郷隆盛を悼んだ結果、西郷星の噂が流布されたと考えられています。

また、西郷星の周りではもう一つ目立つ星が、西郷星と近づいたり離れたりしていました。この星を見た人々は、この星は西郷隆盛の信奉者の一人である桐野利秋ではないかと考え桐野星と名付けています。

では、西郷星や桐野星の正体は何だったのでしょうか。

西郷星は赤く光る大きな星。つまり火星でした。火星は明治10年8月下旬頃から日本に接近をしていました。 そのため、いつもよりひときわ輝いていた巨星を人は西郷星と名付けています。

また、桐野星は西郷星よりは少し小さいけれど目立つ星。そう、土星が桐野星の正体でした。

もちろん当時の庶民に天体に関する知識はありません。そのため西郷隆盛の死の間際に出現した大きな星を西郷星。西郷星よりは少し小さくて、西郷星に近づいたり離れたりする星を桐野星と名付けています。

実際、西郷星や桐野星は多くの注目を浴びていたようで、西郷星を描いた多くの浮世絵が販売されたと伝えられています。

遠くに離れていながら、西郷隆盛の死を悼む人たちによって生まれたのが西郷星や桐野星であったようです。

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西郷隆盛生存説とは

西郷隆盛は西南戦争後にその首が発見されています。しかし、西郷隆盛の死を信じようとしない人たちも多くいたようです。

西郷隆盛生存説に従えば、西郷隆盛の首は別人という話がスタートになります。たとえば、西南戦争時に西郷隆盛には5人の影武者がいて、発見された首はその影武者のものであるという噂が生まれています。

では生き延びた西郷隆盛はどこに行ったのでしょうか。これについては中国大陸、朝鮮半島、東南アジアなど様々なうわさが飛び交っています。

西郷隆盛生存説は当時の庶民というよりは、当時の新聞が喧伝したとも言われています。

明治新政府ができて10年。しかし、明治政府に対する人々の不信感は強く、多くの人々が明治維新に続く再度の世直しを願っていたとも言われています。

その世直しの中心人物が西郷隆盛。生き延びた西郷隆盛が改めて日本に戻り、今度こそ庶民が願う大きな改革を成し遂げてくれる。

多くの庶民の強い願望が新聞社を動かし西郷隆盛生存説を唱えたというのが、西郷隆盛生存説の大きな流れのようです。

西郷隆盛生存説が引き起こした大事件とは

西郷隆盛の死に際して新聞が主導となって引き起こした西郷隆盛生存説はその後も根強く残っていました。

その西郷隆盛生存説が後に大きな事件を引き起こしています。それが明治24年の大津事件です。

大津事件とは、日本を訪問していたロシアの皇太子(後のニコライ2世)が、現在の滋賀県大津市で警備を担当していた警察官である津田三蔵に襲撃をされた事件です。

当時の日本は小国、対するロシアは世界の中でも大国の一つに数えられていました。その小国で警備を担当する警察官がロシア帝国の皇太子を襲撃したわけですから、日本にとっては最大の国難になります。

幸いロシア皇太子は命を落とすこともなく、この事件でロシアと日本が対立関係に陥ることもありませんでしたが、当時の日本にとっては大問題でした。

では、大津事件と西郷隆盛生存説はどのような関係があったのでしょうか。

津田三蔵は西南戦争時に政府側の兵として従軍し勲章も得ています。また、そうした功績もあり職も得ていたわけですが、ロシアの皇太子が日本に来日するときに生き延びていた西郷隆盛も帰国。

明治政府の改革を図るとともに、あわせて当時授与されていた勲章などもはく奪する。そんな噂が出ていました。

津田三蔵には精神的な疾患があったとも言われていますが、西郷隆盛の帰国は自然発生的に出たものではなく当時の新聞もその噂を活字にしていました。

津田三蔵だけでなく当時の庶民の多くはこの噂の真偽を見守っていたと伝えられています。

もちろんロシア皇太子とともに西郷隆盛が帰国することはありませんでしたが、西南戦争終結後10年以上経っているにも関わらず、西郷隆盛生存説がささやかれていたのは驚きです。

さいごに

太陽系の惑星のイラスト
この記事では西郷隆盛にまつわる伝説。西郷星と桐野星。そして西郷隆盛生存説と、西郷隆盛生存説が引き起こした大津事件について簡単にご紹介をしてきました。

古来、歴史に名を残した人物には生存説が語り継がれることがあります。たとえば、源義経や豊臣秀頼などにも生存説はありました。

しかし、西郷隆盛は歴史的にずっと新しい人物で、実際に首も発見されています。それでも西郷隆盛には数々の伝説が残されています。

やはり西郷隆盛にはそれだけの魅力があったのでしょうか。

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