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はじめに
月照(げっしょう)と西郷隆盛(さいごうたかもり)の関係を、わかりやすくご案内します。まずは生没年からご案内をすると
★ 月照は、1813年に生まれ、1858年に亡くなります。
★ 西郷隆盛は、1828年に生まれ、1877年に亡くなります。
月照と西郷隆盛には、約15歳の年の差があることが分かります。
また、月照が生まれたのは大坂。西郷隆盛が生まれたのは薩摩(現在の鹿児島県)です。
年齢差があり、生まれた場所も遠く離れている。普通に考えれば、月照と西郷隆盛に接点は生まれないはずですが、月照と西郷隆盛には深い関係があったようです。
この記事では、月照と西郷隆盛の関係について、時系列でわかりやすくお伝えしていきます。
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月照と西郷隆盛の関係1 島津斉彬が亡くなるまで
月照は1813年に大阪で生まれます。生家は町医者ですが、1827年に清水寺の成就院に修行に入り、1835年には同寺の住職になります。しかし1853年に黒船が来航して尊皇攘夷の運動が盛んに行われるようになり、月照も尊王攘夷運動に傾倒するようになります。
一方、西郷隆盛は何をしていたのでしょうか。
1828年に生まれた西郷隆盛は薩摩藩の下級武士でしたが、薩摩藩主島津斉彬(しまづなりあきら)に見いだされて、1854年以降は江戸・京都・大阪などで活動を始めます。
月照と西郷隆盛の出会いがいつの頃であったのかは定かではありません。しかし月照も西郷隆盛も、幕末の活動の中で出会ったことは間違いないようです。
当時、西郷隆盛は島津斉彬の命を受け、情報の収集や公家や諸藩役人との折衝をこなしていました。
内容としては、島津斉彬は次の将軍に一橋家の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)を擁立しようと画策していて、それを実現させるため具体的な活動をしていたのが西郷隆盛です。
その時、西郷隆盛の前に登場するのが月照です。月照は尊王攘夷運動に奔走していて、公家とも交流がありました。月照は西郷隆盛の依頼を受け、薩摩藩と朝廷の橋渡し役を務めていたと考えられています。
島津斉彬を尊敬し、島津斉彬のためならばと考える若い西郷隆盛。一方、国難を憂いて国事に奔走する月照。
2人の出会いはそれぞれの仕事を通してという関係でしたが、月照と西郷隆盛にはいつしか深い結びつきが生まれていたようです。
1858年7月、島津斉彬は急死します。島津斉彬を尊敬し、活動の後ろ盾を失った西郷隆盛は殉死しようとします。
それを思いとどまらせたのは月照。結果的に西郷隆盛は殉死を思いとどまることになりますが、この時点で月照と西郷隆盛には深い信頼関係のあったことがうかがえます。
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月照と西郷隆盛の関係2 月照が亡くなるまで
1858年7月に島津斉彬が急死。同時期に始まったのが、大老井伊直弼による安政の大獄です。尊皇攘夷の思想を持ち、幕府から危険人物扱いされていた月照にも危険が迫ります。そこで西郷隆盛は月照を薩摩に逃がします。
薩摩は遠隔の地で幕府の追及もここまでは来ないと考えていた西郷隆盛。しかし、当時の薩摩は島津斉彬という偉大な藩主を失ったばかりで、幕府に対抗しようという意志を持ち合わせてはいませんでした。
薩摩藩にとって月照は幕府に睨まれている厄介者。薩摩藩が月照に下したのは「日向送り」です。
日向とは現在の宮崎県。日向送りとは文字だけで考えると、月照を鹿児島に置くことなく宮崎に追放するということですが、実質的には殺害命令です。
日向送りとは、薩摩から日向の国境に入ったところで暗殺をしてしまえという指令になります。そのことを知っていた西郷隆盛と月照は前途を悲観します。
そしてとった行動が入水自殺。1858年12月、西郷と月照は鹿児島の錦江湾(鹿児島湾)で入水自殺を図ります。
結果として月照は死亡(享年46)。西郷隆盛は救助されて一命をとりとめますが、その後、奄美大島に遠島を命じられています。
さいごに
月照と西郷隆盛の関係について、出会いから月照の死までをお伝えしてきました。
西郷隆盛が月照と出会ったのは尊皇攘夷で世間が騒がしかった頃です。西郷隆盛にとっては、薩摩藩の一下級武士が島津斉彬に見いだされて、世の中に勇躍しようとする時期でした。
西郷隆盛は明治維新三傑の一人に数えられる人物ですが、月照と西郷隆盛が出会ったのは西郷隆盛が世の中で活動を始める、まさにスタートの時期でした。
西郷隆盛はとても感情豊かな人物であったと言われています。島津斉彬が亡くなった時、殉死しようとした。月照が危地に追いやられた時、運命を共にしようとした。
この2つの事柄をみてもそのことは明らかで、言い換えれば西郷隆盛がそのような人物であったからこそ、明治維新を成し遂げることができたとも言えそうです。
月照と西郷隆盛の関係。
時間的に見ればわずかなものだったかもしれませんが、月照が西郷隆盛に与えた影響はとてつもなく大きなものだったようです。
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