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日本史

徳川家康の子供の数は16人!それぞれの生涯を簡単解説

江戸城

徳川家康の子供の数は16人

15代続いた江戸幕府で初代将軍となったのが徳川家康です。

豊臣秀吉が後継者として残した子供が豊臣秀頼一人だったのに対して、徳川家康には数多くの子供がいたため幕府を存続することができた。

そんな風に考えることができるかもしれません。

徳川家康の子供の数は、実子だけでも16人と伝えられています。この記事では、実子16人を一覧でご紹介するとともに、それぞれの生涯を簡単にお伝えします。

徳川家康の子供を一覧で

 
名前生没年
長男松平信康1559年~1579年築山殿(正室)
長女亀姫1560年~1625年築山殿(正室)
次女督姫1565年又は1575年~1615年西郡局
次男結城秀康1574年~1607年小督局
三男徳川秀忠1579年~1632年西郷局
四男松平忠吉1580年~1607年西郷局
三女振姫1580年~1617年於竹
五男武田信吉1583年~1603年下山殿
六男松平忠輝1592年~1683年茶阿局
七男松平松千代1594年~1599年茶阿局
八男平岩仙千代1595年~1600年於亀
九男徳川義直1601年~1650年於亀
四女松姫不詳於久
十男徳川頼宣1602年~1671年蔭山殿
十一男徳川頼房1603年~1661年蔭山殿
五女市姫1607年~1610年於梶
なお、徳川家康には実子の他、猶子・養子・養女が数十人います。また、御落胤がうわさされる人物も複数いますが記載は省略させていただきます。

それでは、徳川家康の子供16人の生涯を簡単にご紹介します。

徳川家康の子供1

長男 松平信康 1559年~1579年

松平信康は、徳川家康と正室築山殿の間に生まれています。

徳川家康の嫡男である松平信康は、本来は後継者であるべきところですが、時の権力者である織田信長に謀反の疑いを掛けられ、切腹により最期を遂げています。

もっとも松平信康に謀反の事実などはなく、織田信長の命による切腹という説も疑いがもたれています。

昨今は、父の徳川家康と子の松平信康の対立が深刻になり、争いの芽を摘むため徳川家康が織田信長に働きかけ、松平信康を死に追いやった説も有力になっています。

真実はわからないものの、松平信康は20歳で生涯を閉じたのは間違いないようです。

 
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長女 亀姫 1560年~1625年

亀姫も、徳川家康と正室築山殿の間に生まれています。

亀姫は16歳の頃、徳川家に帰順してきた奥平信昌の正室として嫁ぎます。

その後、徳川家康の娘婿となった奥平信昌は大名となり、亀姫も正室の地位を保ったまま生涯を閉じています。

次女 督姫 1565年又は1575年~1615年

督姫は、1583年に北条氏直の正室として嫁ぎます。

当時は、徳川氏と北条氏が争っていた時で、それを収めるための政略結婚でした。その後、大名としての北条氏が滅亡し、1591年には北条氏直も病死します。

1594年、豊臣秀吉の口添えにより、大名の池田輝政に再嫁。池田輝政との間に、5男2女をもうけ1615年に病死をしています。

次男 結城秀康 1574年~1607年

結城秀康は3歳になるころまで、徳川家康との対面ができませんでした。

その理由は、正室の築山殿の目を恐れたなどを含めいくつかありますが、はっきりとしてません。

その後、兄松平信康の死により結城秀康が後継の立場を得るべきところですが、1584年の小牧長久手の戦い時の和睦の条件として、敵方の豊臣秀吉の養子になります。

さらに1590年には、北関東の名家結城氏の養子となり、以後は結城秀康となります。

結城秀康が養子に出されたこと、そして徳川家康の後継になれなかったことの理由についても諸説ありますが、結果的に徳川家康の後継者は三男徳川秀忠になっています。

 
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三男 徳川秀忠 1579年~1632年

徳川秀忠は、松平信康が切腹する数か月前に誕生し、兄の結城秀康を押しのける形で江戸幕府第2代将軍の座に収まっています。

これは、徳川家康が結城秀康を嫌っていたからという可能性も否定できませんが、結城秀康よりも徳川秀忠の生母の方が家格が高かったからという説もあります。

ただ、武将としての資質では兄の松平信康や結城秀康よりも劣るとされ、凡庸という評価も下されていました。

代表的な事例としてあげられるのが、関ケ原の戦いに間に合わなかったことで、徳川秀忠は約4万人の大軍を率いながら関ケ原に到着したとき、戦いは終わっていたというものです。

しかし徳川秀忠には律義者という長所がありました。

父の命令には唯々諾々と従う姿は、始まったばかりの江戸幕府の土台を作るうえではとても貴重な存在。

江戸幕府は1603年に作られ、徳川家康が初代将軍の座に就きますが、1605年には徳川秀忠が2代将軍になっています。

実質は徳川家康が仕切っていたとはいえ、父に逆らうことのない徳川秀忠はうってつけの存在でした。

1623年、将軍の座を徳川家光に譲り、1632年に病死をしています。

 
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四男 松平忠吉 1580年~1607年

松平忠吉は、徳川秀忠の同母弟です。

関ケ原の戦いに参陣し活躍しますが、病気により亡くなっています。

三女 振姫 1580年~1617年

振姫は1598年に蒲生秀行の正室になります。

1600年の関ケ原戦いで蒲生秀行は東軍につき、戦後は会津60万石の大名になるものの、1612年に急死します。

蒲生秀行亡き後すぐに起こったのが、いわゆるお家騒動。

徳川家康の裁定により振姫側が勝利を得るものの、1616年、振姫は蒲生家を離れて浅野長晟に再嫁します。

1617年、男児を産んだすぐ後に亡くなっています。

五男 武田信吉 1583年~1603年

武田信吉は、母が武田家に縁のある女性だったため、一時期、武田姓を名乗っています。

関ケ原の戦いでは江戸留守居役を命じられ、戦後は水戸に25万石の領地を与えられますが、間もなく病死しています。

徳川家康の子供2

六男 松平忠輝 1592年~1683年

松平忠輝は、1606年に伊達政宗の娘五郎八姫を正室に迎えます。

既に大名だった松平忠輝でしたが、1609年には家臣が松平忠輝の不行跡を徳川家康に訴えています。

この時は、徳川家康の裁定により松平忠輝に軍配が上がり、その後は越後国高田で63万石を与えられています。

しかし、1614年の大坂冬の陣では江戸で留守居役を命じられたことに不満を唱え、1615年の大坂夏の陣には遅参。

こうした行動により徳川家康は激怒。

その後の面会を禁じるとともに、1616年に徳川家康が危篤に陥ったときも近くまで駆けつけたものの、許しを得ることはできませんでした。

さらに徳川家康が亡くなった直後、徳川秀忠の命により改易となり、最後は諏訪に配流され、そこで生涯を閉じています。

松平忠輝が配流になったのは24歳の頃。亡くなったのが92歳なので、とりわけ長い配流生活を送ったことがわかります。
 
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七男 松平松千代 1594年~1599年

松平松千代は、生後間もなく深谷藩主となるものの5歳で病没しています。

八男 平岩仙千代 1595年~1600年

平岩仙千代は、徳川家の忠臣の一人平岩親吉の養子となるものの5歳で病没しています。

九男 徳川義直 1601年~1650年

徳川義直以降の子は、関ケ原の戦いが終わった後に誕生しています。

徳川義直が領地を得たのは僅か2歳。甲斐25万石を与えられています。

1614年の大坂冬の陣が初陣。1615年、大坂夏の陣でも後詰の役割を与えられています。

徳川家康が亡くなった後は尾張国に入り、尾張徳川家の祖となります。

四女 松姫 不詳

松姫は幼くして亡くなったようで、はっきりとしたことはわかっていません。

十男 徳川頼宣 1602年~1671年

徳川頼宣も、兄の徳川義直と同じように2歳で水戸藩20万石を与えられています。

初陣も徳川義直と同じ大坂冬の陣。翌年の大坂夏の陣にも参陣しています。

1619年には紀州国に入り、紀州徳川家の祖となります。

十一男 徳川頼房 1603年~1661年

徳川頼房は3歳の頃、常陸国下妻で10万石。1609年には常陸国水戸25万石に転封されています。

大坂の陣では、大坂ではなく駿府城守護の任を与えられています。

徳川頼房は水戸徳川家の祖とされています。

五女 市姫 1607年~1610年

市姫は生まれてすぐ、伊達政宗の嫡男伊達忠宗に嫁ぐことが決まっていましたが、3歳の時毒虫に刺され亡くなっています。

まとめ

徳川家康には、男子11人・女子5人の合わせて16人の実子がいたと伝えられています。

ところで、徳川家康の子供のうち、特に男子については関ケ原の戦い前に生まれた子供と、その後に生まれた子供では大きな差異が見受けられます。

関ケ原の戦い前に生まれたのは、長男から八男まで。

この中で、四男の松平忠吉、五男の武田信吉、七男の松平松千代、八男の平岩仙千代は若くして亡くなっているので差異は見受けられません。

しかしそれ以外では、長男の松平信康は切腹、次男の結城秀康は他家に養子、六男の松平忠輝は改易の上配流。

総じていえば、関ケ原の戦い前に産まれた男子は、過酷な運命にさらされています。

最後まで残ったのは三男の徳川秀忠ですが、こちらも徳川家康に厳しく育てられたと考えられています。

それでも徳川秀忠が残ったのは、才能は乏しくても、最後まで父徳川家康に対して従順であったためと思われます。

一方、関ケ原の戦い後に生まれた3人に対しては、徳川家康も優しく接していたと伝えられていますし、尾張、紀州、水戸徳川家の祖となっています。

関ケ原の戦いで勝利し、実質的な天下が自分のものになった安心感からか。

あるいは、徳川家康にとっては子供というより孫に近い存在であったためなのかはわかりませんが、何れにしても3人の子は大きな領地を与えられています。

生まれた時期で、これほど運命が変わるのも不思議な感じがします。

 
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