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有馬新七の生涯と寺田屋事件を簡単にまとめてみました!

最終更新日:2018-11-07
有馬新七が亡くなった寺田屋

はじめに

この記事では、幕末の薩摩藩士である有馬新七についてお伝えをしていきます。

有馬新七は1825年に生まれ、1862年に亡くなります。亡くなった時の年齢は満年齢で36歳。亡くなった場所は京都の寺田屋。

ところで、幕末においては2つの寺田屋事件がありました。

一つは1862年に起こった薩摩藩の内部抗争ともいわれた寺田屋事件。もう一つは、1866年に坂本龍馬が伏見奉行に襲われ負傷した寺田屋事件。

有馬新七は最初の寺田屋事件で同じ薩摩藩の藩士により命を落としています。それでは、有馬新七の生涯について簡単にお伝えしていきたいと思います。

寺田屋事件までの有馬新七

有馬新七は若年の頃から文武両道の武士として知られていました。有馬新七は剣術は真影流を学ぶとともに、14歳の頃からは朱子学の一つである崎門学(きもんがく)を学び始めます。

有馬新七は自らを評して、天性急烈で長者の教えに従わないと語っています。

有馬新七は崎門学を学ぶに際しては独学も多かったようですが、強い信念と独立独歩の精神を持っていたため、学問を自分のものにできたとも言えそうです。

その後、19歳の頃に江戸に遊学。このとき崎門学の先達である山口菅山の門人になるとともに、梅田雲浜とも親交を深くし自らの思想を確立していきます。

 

※ 梅田雲浜(1815年~1859年)とは

江戸時代末期の儒学者。ペリーの来航と共に尊皇攘夷を強く主張。尊皇攘夷派のリーダー的存在となるが安政の大獄で捕縛され獄死。

 

その後、1858年には薩摩藩の学問所教授に就任をしますが、安政の大獄が起こり、薩摩藩主の島津斉彬が急死すると有馬新七の運命も大きく変わります。

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寺田屋事件と有馬新七

有馬新七が亡くなった寺田屋
薩摩藩主で人材登用に熱心であった島津斉彬は1858年に急死をします。

次の藩主となったのは、島津斉彬の弟である島津久光の子の島津忠義です。もっとも島津忠義は年少であったため、薩摩藩の実権は島津久光が握ることになります。

前藩主の島津斉彬は、幕府と朝廷に働きかけ公武合体を推し進めようとしていました。薩摩藩の実権を握った島津久光も兄の遺志を継ぎ、公武合体を念頭に活動をします。

しかし、世情は公武合体よりも尊皇攘夷が中心となりつつありました。簡単に言えば、島津久光の考えは時代遅れであったと言えそうです。

1862年3月16日、島津久光は藩兵1000を率いて江戸へ向かおうとします。

島津久光の江戸行きの目的は江戸にある薩摩藩邸の新築でした。また、島津久光には京都に行き孝明天皇に公武合体を進言したうえで、江戸に行って公武合体を実現しようという思惑もあったようです。

しかし、周囲はそうは思いませんでした。

特に京都にいた有馬新七・橋口壮介・森山新五左衛門たちは寺田屋に終結。同じ尊皇攘夷の思想を持つ長州藩士たちと語らって、関白九条尚忠や京都所司代の酒井忠義の暗殺計画を練ります。

4月14日に京都に入った島津久光はこの計画を知ります。公武合体を考えていた島津久光にとってこの計画は許されるものではありません。

そこで、まずは島津久光の江戸行きに随行していた大久保一蔵(後の大久保利通)や有村俊斎(後の海江田信義)、奈良原繁などを数度にわたり説得に赴かさせるも失敗。

最後は剣術に優れた者9名(大山綱良・奈良原繁など)を寺田屋に遣わして説得を試みますがやはり失敗。そして、この時に起こったのが寺田屋事件です。

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有馬新七の最期

薩摩藩の内紛と言われた寺田屋事件では多くの人が命を落とします。

討手側としては、道島五郎兵衛が死亡。

一方、寺田屋にいた人物のうち有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵の6名が死亡。

田中謙助・森山新五左衛門の2名が重傷(後に切腹)。大山巌・西郷従道・三島通庸・篠原国幹・永山弥一郎などが投降。

多大な犠牲を払って寺田屋事件は終結を見ます。

ところで、有馬新七最期のとき、有馬新七最大のエピソードが生まれています。

それは、有馬新七が討手側の道島五郎兵衛と組み合っていた時に、傍らにいた同士の橋口壮介に向かって「オイゴト刺セ」と命じたことです。

橋口壮介も仕方なく、有馬新七の背後から刀を突きさし、この結果として有馬新七と道島五郎兵衛は亡くなります。

さいごに

有馬新七が亡くなった寺田屋
有馬新七は寺田屋事件により最期を迎えています。

寺田屋事件が起こったのは1862年5月21日。では、その後の薩摩藩はどうなったのでしょうか。

公武合体を推進するため武力行使に出た島津久光は当時の朝廷に大きく評価されました。また、江戸においても公武合体の推進に大きな役割を果たしています。

大いに面目を施した島津久光ですが、江戸から薩摩への帰途で大きな事件を引き起こしています。それが島津久光の行列の邪魔をしたイギリス人を薩摩藩士が殺傷した生麦事件です。

生麦事件そのものは特に攘夷論者には喜んで迎えられましたが、その後の薩英戦争の原因となり、薩英戦争に敗れた薩摩藩はその思想を公武合体から倒幕に切り替えていくことになります。

そのように考えると島津久光が実行に移そうとした公武合体は、儚い夢のようなものであったのかもしれません。

ただ、寺田屋事件により多くの有能な薩摩藩士が命を落としたのも事実。果たして有馬新七たちはどのような気持ちで最期を迎えたのでしょうか。

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