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中村半次郎(桐野利秋)と西郷隆盛の関係のピンポイント解説

はじめに

この記事では、中村半次郎(桐野利秋)と西郷隆盛の関係をいくつかにまとめて、ピンポイントでお伝えをしていきます。

まずは、中村半次郎(桐野利秋)と西郷隆盛の生没年についてご案内します。

 

中村半次郎(桐野利秋) 1838年~1877年9月24日

西郷隆盛 1828年~1877年9月24日

 

桐野利秋は西郷隆盛より約10歳の年少。しかし、亡くなったのは同日です。

なお、中村半次郎(桐野利秋)は、概ねですが幕末までは中村半次郎、明治から亡くなるまでは桐野利秋と名乗っています。

この記事でも、時代に合わせて中村半次郎、桐野利秋を使い分けていきたいと思います。

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中村半次郎と西郷隆盛の関係 戊辰戦争まで

中村半次郎と西郷隆盛の関係がいつ始まったのかは定かではありません。それは、同じ薩摩藩士でありながらも、ともに身分が低く記録に残っていないためです。

もしかしたら中村半次郎と西郷隆盛は幼いころから面識はあったかもしれません。でも実際に2人の関係が確認できるのは1864年に起きた池田屋事件の頃からです。

 

※ 池田屋事件とは、長州藩を中心とする過激な尊王攘夷思想を持つ志士たちを、新選組が襲撃した事件。この事件で新選組は一躍有名になります。

 

この時点で、西郷隆盛は中村半次郎に命じて、当時の尊王攘夷運動の中心となっていた長州藩の志士たちに対する探索活動を命じているようです。

また、その後も薩摩藩の志士として大きな活躍をしていきます。

この時点で中村半次郎には「人斬り半次郎」という異名がありました。幕末の動乱期には人斬りの異名をとる人物が何人かいて、後世「幕末四大人斬り」と言われています。

 

幕末四大人斬り

★ 薩摩の田中新兵衛(たなかしんべえ) 1832年~1863年

★ 肥後の河上彦斎(かわかみげんさい) 1834年~1872年

★ 土佐の岡田以蔵(おかだいぞう) 1838年~1865年

★ 薩摩の中村半次郎(なかむらはんじろう) 1838年~1877年

 

「人斬り半次郎」という異称がある中村半次郎ですが、記録として残る「人斬り」は赤松小三郎に対するものだけ。

人斬りは暗殺なので記録が残りにくいという性質がありますが、少なくとも土佐の岡田以蔵のように人斬りを専門とするような人物ではなかったようです。

また、薩摩藩の志士として認められていた中村半次郎は、江戸幕府の中で実権を握っていた勝海舟から薩摩藩を代表する8人の武士の中に数えられています。

勝海舟によれば、西郷隆盛や大久保利通よりは下に位置付けられてはいますが、それでも中村半次郎が単なる人斬りでなかったことは確かなようです。

中村半次郎と西郷隆盛の関係 戊辰戦争

戊辰戦争で中村半次郎は西郷隆盛の指揮下に入ります。幕末の西郷隆盛と言えば、西郷隆盛と勝海舟が面談をして江戸城を無血開城に導いたことがとりわけ有名です。

もっとも、西郷隆盛と勝海舟の面談は最終的なもので、それ以前にもいろいろな動きがありました。

たとえば、この面談の前に西郷隆盛は勝海舟の意向を受けた山岡鉄舟と静岡で会談をしています。中村半次郎は、西郷隆盛と山岡鉄舟の会談に同席をしていたと伝えられています。

その後、中村半次郎は上野の彰義隊との戦いでも西郷隆盛の指揮下に入り活躍をしています。

戊辰戦争での中村半次郎自身の逸話としては会津攻めがあります。中村半次郎の官軍は会津攻撃に向かい、会津城を落城させることに成功します。

このときに城の受取の役割りを担った中村半次郎は、敗れた会津藩士の心情を慮って号泣します。また、このことに感銘を受けた会津藩主の松平容保は後に中村半次郎に刀を授けています。

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桐野利秋と西郷隆盛の関係 征韓論まで

熊本城



 

 

 

 

 

 

 

 

 

戊辰戦争で活躍した中村半次郎は、明治になり桐野利秋と名を改めます。

明治になり、江戸時代まで認められていた通称と諱(いみな)の併用が認められなくなり、どちらかを選択する必要がでてきました。

 

たとえば、

★ 薩摩の大久保利通は通称は一蔵、諱は利通でしたが、諱を選択し大久保利通となります。

★ 肥前の江藤新平は通称は新平、諱は胤雄でしたが、通称を選択し江藤新平となります。

 

では、中村半次郎はどうだったのでしょうか。

中村半次郎は、通称が半次郎、諱が利秋です。中村半次郎は諱を選択しましたが、それでは中村利秋です。 実は中村家の先祖を辿っていくと桐野を名乗っていた時期がありました。

そこで中村半次郎は桐野利秋を名乗っています。

さて桐野利秋は明治政府の中でも重要な役職を歴任します。

それを簡単に記すと

 

1871年 陸軍少将に任じられる

1872年 熊本鎮台の司令長官に任命される

1873年 陸軍裁判所所長を兼任する

 

ただし、桐野利秋の明治政府での活躍もここまで。1873年10月に征韓論で敗れた西郷隆盛が明治政府を離れて下野すると、桐野利秋もすぐに辞表を出し鹿児島に戻ってしまいます。

桐野利秋と西郷隆盛の関係 西南戦争まで

鹿児島に帰った桐野利秋は開墾事業にいそしみます。1874年には私学校ができますが、その中でも桐野利秋は開墾事業で役割を発揮します。

桐野利秋の立場が大きく変わったのは1877年の西南戦争です。

私学校は鹿児島の中で大きくなり、明治政府に対しても決して従順な存在とはいえませんでした。そこで明治政府は私学校を挑発して起こったのが西南戦争です。

西南戦争の始まりに際して、西郷隆盛は自分の命はみなにあげてしまおうというようなことを語り、軍議の席でも特に発言することなくその推移を見守っていたと言われています。

そして軍議の席で中心となったのが桐野利秋や篠原国幹です。この2人は主戦論者でした。

2人の主戦論者を中心に私学校は西南戦争に突入していきますが、後世、西南戦争を評して「西南戦争は桐野利秋の戦争だった」とも言われています。

西南戦争の中心人物は西郷隆盛でしたが、実質的に戦争遂行の主導権を握っていたのは桐野利秋であったようです。

では、桐野利秋はどのような考えを持って戦いに臨んだのでしょうか。 どうやら桐野利秋には、明確な戦術も戦略もなかったようです。

私学校の最終的な目的は東京まで攻め上って明治政府に意見を言うことでした。その戦いの手始めは熊本城。

桐野利秋は熊本城攻めに向かう時に、青竹を振り上げて「熊本城などはこの青竹1本で踏み潰せる」と豪語しています。

現実問題としては、熊本城攻撃は鎮台兵の抵抗にあい膠着、その間に政府軍の兵力が増強され私学校は敗北をします。

では、どうして桐野利秋は熊本城を簡単に攻略できると考えたのでしょうか。

その理由は、いくつか考えられます。

 

★ 桐野利秋は熊本鎮台の司令長官を務めていて、熊本城の弱点を知っていた。

★ 敵は鎮台兵。鎮台兵は寄せ集めの軍隊で武器の扱いを知らない農民もいた。

★ 西郷隆盛の威光があれば、敵は恐れるはずだと考えていた。

 

桐野利秋の青竹宣言は、桐野利秋自身にとっては正論だったのかもしれませんが、客観的には何の根拠もありません。

その桐野利秋の意向で行われたのが西南戦争だった。そのように考える人が多いため「西南戦争は桐野利秋の戦争だった」と言われています。

最終的に西郷隆盛は鹿児島の城山に籠り亡くなります。西郷隆盛の死を見届けた桐野利秋は敵に向かい、銃弾に倒れて生涯を閉じることになります。

さいごに 西郷隆盛の桐野利秋に対する評価とは


 

 

 

 

 

 

西郷隆盛と桐野利秋は同じ日に、ほぼ同じ場所で亡くなります。西郷隆盛と桐野利秋には終生深い結びつきがあったように思われます。

2人の関係は、基本的には桐野利秋の西郷隆盛に対する憧れから生まれたものと思われますが、西郷隆盛は桐野利秋をどのように見ていたのでしょうか。

西郷隆盛は桐野利秋を「桐野利秋に学問があれば、到底、彼にはかなわない」と評しています。

桐野利秋は、英邁であり、豪胆であり、思慮に優れ、慈悲の心もある。とても、魅力ある人物として語られることが多いようです。

ただし、学問はない。薩摩藩の下級武士の子として生まれ、その日暮らしがやっとだった桐野利秋には酷かもしれませんが、西郷隆盛に限らず多くの人が桐野利秋の学問のなさを指摘しています。

桐野利秋はとても魅力あふれる人物だったようです。しかし、学問のなさが戦術や戦略を見誤り、結果的に西郷隆盛を死地に追い込んでしまった。

桐野利秋には好評価だけでなく、西郷隆盛を死に追いやった張本人ということで辛辣な意見を語る人も多いようです。

果たして、桐野利秋はどのような人物だったのでしょうか。

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