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源頼家が最期を迎えるまでの生涯を簡単にご案内します!

源頼家終焉の地修善寺
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鎌倉殿の13人誕生のきっかけとなった源頼家

2022年の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」。

鎌倉殿の13人は、鎌倉幕府草創期に存在していたと伝えられる13人の合議制機関です。

この合議制機関については実在を疑う意見があります。

また、存在していたとしてもできたのが1199年、瓦解したのが1200年と、ごく短期間であった可能性もあります。

ただ何れにしても当時の鎌倉幕府の運営が集団体制で行われていたのは確かなようで、このきっかけを作ったのが源頼家(みなもとのよりいえ、1182年~1204年)です。

この記事では、鎌倉幕府第2代将軍源頼家が最期を迎えるまでの生涯を、簡単にお伝えしていきます。

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源頼家が将軍になるまで

源頼家が生まれたのは1182年。

父は後に鎌倉幕府初代将軍になった源頼朝(みなもとのよりとも、1147年~1199年)、母は源頼朝の正室である北条政子(ほうじょうまさこ、1157年~1225年)で、源頼家は嫡男として誕生しています。

源頼家が生まれた頃を見ると、前年の1181年には栄華を誇った平清盛が亡くなっています。

また1184年には、平家を追討し先に京都に入っていた源義仲(みなもとのよしなか、1154年~1184年)を、源頼朝の軍勢が討ち果たしています。

源頼家が生まれたころは、まだ政情が不安定な時期でしたが、1185年には壇ノ浦の戦いで平家が滅亡。

源頼家は生まれながらの将軍というわけではなかったものの、幼少期にはすでに将軍の座を約束されていました。

源頼家が誕生した場所は、有力御家人の一人であった比企能員(ひきよしかず、不詳~1203年)の屋敷です。

源頼朝の乳母であったのが比企尼(ひきのあま、生没年不詳)、比企尼の養子となったのが比企能員です。

また、源頼家の乳母には比企尼の次女が選ばれるなど、源頼家の周囲は比企氏で固められていました。

このことが、後の源頼家の運命を決める一因となったのかもしれません。

1199年1月に源頼朝が急死し、源頼家が18歳で家督を継ぎます。

しかし4月には鎌倉殿の13人という合議制の機関が作られ、源頼家は早くも権限を大きく削がれています。

源頼家は反発し、近習5人のみにしか目通りを許さない措置をとります。

この中には比企能員の子である比企宗員(ひきむねかず、不詳~1203年)、比企時員(ひきときかず、不詳~1203年)がいます。

ここにも比企氏の影響を強く感じることができます。

1199年10月には、源頼朝に仕え、源頼家にも重用されていた梶原景時が、御家人66人連署の連判状により失脚。

源頼家は梶原景時を救済することができず、1200年の梶原景時の乱で梶原氏一族の多くが最期を迎えています。

梶原景時の失脚は、梶原景時を重用していた源頼家にとっても大きな痛手になったものと思われます。

家督を継いでも順風満帆とは言えなかったものの、源頼家は1202年に征夷大将軍の座に就いています。

 
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源頼家が将軍の座を追われるまで

1203年は、源頼家にとって大きな出来事が続いた年です。

阿野全成事件

まず3月に阿野全成事件が起こります。

阿野全成(あのぜんじょう、1153年~1203年)は源頼朝の異母弟で、源頼家にとっては叔父になります。

また阿野全成の妻である阿波局(あわのつぼね、不詳~1227年)は北条政子の妹で、源頼家にとっては叔母になります。

阿野全成と阿波局は源頼家と血縁関係にありましたが、問題はこの2人が北条家寄りであったこと。

また、阿波局は源頼家の弟である源実朝(みなもとのさねとも、幼名千幡、1192年~1219年)の乳母を務めていました。

鎌倉殿の13人の中には、北条時政(ほうじょうときまさ、1138年~1215年)や、その子北条義時(ほうじょうよしとき、1163年~1224年)がいます。

北条時政と北条義時は源頼家を排斥し、源実朝擁立を画策します。

これは比企氏と縁の深い源頼家が将軍であるうちは、北条氏が入り込む余地はないということで、北条氏と関わり合いの深い源実朝を将軍にしようというものです。

排斥の動きは源頼家にも伝わります。

そこで先手をうって勃発したのが阿野全成事件で、源頼家方は阿野全成を捕え、死に追いやります。

阿波局も捕縛されそうになりますが、北条政子が拒否して難を逃れ、影響が直接に北条氏に及ぶこともありませんでした。

源頼家からすれば謀反の芽を摘み取ったといえるのでしょうが、事件を契機に北条氏と対立する構図がはっきりと浮かび上がってきます。

比企能員の変

以前より体調不良を訴えていた源頼家は、8月になると病状をさらに悪化させ危篤の状態に陥ります。

このとき動いたのが、鎌倉殿の13人の中でも有力者で北条政子の父である北条時政です。

北条時政は源頼家が生きているにも関わらず、源頼家の長男である一幡(いちまん、1198年~1203年)に関東28ヶ国の総地頭、源頼家の弟千幡(後の源実朝)に関西38ヶ国の総地頭を譲ると相続を決めます。

しかし、これでは比企氏の勢力が著しく削がれてしまいますし、病床にあった源頼家も激怒。

比企能員は源頼家と北条氏を倒す企てを図りますが、これを障子を隔てて聞いていた北条政子は父の北条時政に報告します。

北条時政は、比企能員を自らの屋敷に呼び出そうと画策。

源頼家との密議が漏れていることに気づいていなかった比企能員は、北条時政のもとに赴き討ち果たされてしまいます。

また北条時政は余勢をかって、一気に比企氏の館に攻め込みます。比企一族の多くが最期を迎えるとともに、源頼家の長男である一幡も亡くなります。

病状が回復した源頼家は北条時政討伐を企てますが、先に梶原景時、直近では比企能員を失っていた源頼家に従う御家人はいません。

9月には北条時政により将軍の座を追われ、源頼家の弟で北条氏に近い千幡が後継となります。

もっとも千幡も年少で政務を執る能力はなく、実質的に北条時政が鎌倉幕府において大きな権限を握ります。

 
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源頼家の最期

将軍の座を追われた源頼家は、伊豆国の修善寺に幽閉されますが、翌1204年7月に北条氏が差し向けた兵により最期を迎えます。

源頼家が家督を継いだのは1199年のことですが、実質的に権力を握っていたのは僅か数か月。

征夷大将軍に任じられた1202年には既に実権を取り上げられ、1203年には将軍の座を追われ、1204年には21歳の短い生涯を閉じています。

源頼家が実権を取り上げられたのは、源頼家自身に傍若無人な振る舞いが原因とする説があります。

しかし、源頼朝が急死した後に起こったのは有力御家人たちの権力争い。

仮に源頼家が優秀な人物であったとしても若年で、百戦錬磨の有力御家人に抗すべき術を持っていたはずもありません。

また、源頼朝が亡くなった後、源頼家に近い有力御家人の梶原景時と比企能員は何れも程なく死を迎え、源頼家は孤立無援で生涯を閉じています。

権力闘争の渦に抗うすべもなく巻き込まれたのが源頼家ではないでしょうか。

 
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