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はじめに
この記事では阿部正弘にスポットをあて、阿部正弘が締結した日米和親条約や、薩摩藩の島津斉彬との関係などについてご案内をしていきます。まずは、阿部正弘の略歴をお伝えします。
1819年 備後福山藩10万石阿部正精(あべまさきよ)の第5男として江戸に生まれる。
1836年 父の後継として福山藩主となっていた兄の阿部正寧(あべまさやす)が病弱のため、福山藩第7代藩主となる。
1843年 老中となる。
1845年 老中首座となる。海防掛を設ける。
1854年 日米和親条約を締結する。
1855年 長崎海軍伝習所を設置。
1856年 講武所を設置。蕃書調所を設置。
1857年 江戸において急死。(享年39)
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阿部正弘とは
備後福山藩の領地は江戸時代初期まで福島正則が治めていました。しかし、福島家が改易となると、その後は譜代大名が領主となることが多い土地でした。その理由は、備後福山藩の西方には毛利氏など有力な外様大名がいたから。備後福山藩は江戸時代を通して西国の抑えとして重要な役割を担っていました。
阿部氏が備後福山藩の領主となったのは1710年。その後、廃藩置県まで阿部氏がこの地を治めています。
もっとも阿部氏は江戸幕府にあっては名門とされていて、幕閣の中枢にいることも多かったため、領地には戻らず江戸定府となることが多かったようです。
阿部正弘も江戸で生まれ、江戸で亡くなっていて、領地に戻ったのは藩主になった翌年1837年のただ1回だけだったと言われています。
阿部正弘が老中になったのは25歳のとき。それはとても有能であったからというのが第1の理由でしょうが、毛並みの良さも抜擢を受ける大きな理由になったものと思われます。
阿部正弘の政策の特徴
阿部正弘は短い生涯の中でさまざまな施策を打ち出しています。では、阿部正弘の政策の特徴にはどのようなものがあるのでしょうか。特徴そのものはいくつも考えられるところですが、特筆すべきは人材登用です。
阿部正弘により世に出た人物としては、勝海舟、高島秋帆などがいます。勝海舟は御家人の出身。幕臣ではありますが身分は低い方でした。高島秋帆は長崎町年寄の子として生まれています。
身分にとらわれず有能な人材を集めることが阿部正弘の大きな特徴であったようです。
また、大名クラスで代表的な人物は薩摩藩の島津斉彬(1809年~1858年)です。
阿部正弘が島津斉彬と出会ったのは、島津斉彬が薩摩藩主になる前のことですが、島津斉彬に限らず阿部正弘は多くの大名クラスの人々の意見を積極的に聞こうとします。
阿部正弘の積極的な人材登用はそれまでの幕府にはなかったこと。それだけに幕府には新しい風が吹き込むようになりましたが、言い換えれば幕府の弱体化に拍車をかける元にもなったようです。
たとえば、後のことですが、多くの人が意見を述べられるようになったことで第13代将軍徳川家定の後継者選びでは南紀派と一橋派の大きな対立の構図が生まれたりもしています。
また日米和親条約についても同じことが言えます。ペリー来航の外圧により、幕府のとるべき立場を多くの人に求めた阿部正弘ですが、百家争鳴。
結果的に意見をまとめられず、時間切れのような形で日米和親条約は締結されています。
日米和親条約の締結は必然のこととはいえ、意見を聴取しながらそれをまとめられなかった幕府。こうしたことの積み重ねにより江戸幕府は衰退に向かっていったとも考えられます。
日米和親条約とは
前述のとおり、1854年に日米和親条約が締結されました。
日米和親条約には2つの大きな特徴がありました。一つは最恵国待遇であり、もう一つは下田と函館の開港です。
最恵国待遇とは、条約の相手国に関税などで最も有利な条件を与えるというものです。この最恵国待遇でもっともポイントになるのが片務的ということです。
片務的とは、アメリカは日本に対して最も有利な条件を求められるのに対して、日本にはその権利が与えられていないということです。
当時の国情を考えれば、アメリカは日本に来ることができても、日本にはアメリカに行くだけの技術などがない。そうした意味では見逃されがちですが、不平等な条約であることに違いはありません。
また、下田と函館の開港については、江戸や朝廷のある京都周辺の開港を避けることはできたものの、約260年続いた鎖国政策が実質的に破たんしたことを意味しています。
この後、尊皇や攘夷という言葉が頻出することでもわかるとおり、開港は経済的な影響より政治的な影響がとりわけ大きかったようにも思えます。
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阿部正弘と島津斉彬の関係とは
阿部正弘と島津斉彬の関係について特筆すべきは薩摩藩の「お由羅騒動」です。お由羅騒動において、阿部正弘は最初と最後に大きな役割を果たしています。阿部正弘と島津斉彬の関係がいつから始まったのは定かではありませんが、おそらく1845年の頃。阿部正弘が老中になった後のことで20歳台後半のころ。 島津斉彬は、30歳台後半のころ。
1819年生まれの阿部正弘と、1809年生まれの島津斉彬には約10歳の年齢差がありました。
もっとも、既に老中であった阿部正弘に対して、島津斉彬は世子。薩摩藩の藩主は島津斉彬の父である島津斉興(しまづなりおき、1791年~1859年)。そんな時代でした。
薩摩藩主は島津斉興。そして次の藩主になるのは島津斉彬のはずでした。しかし、島津斉興は嫡男である島津斉彬を嫌い、側室お由羅の方との間に生まれた子の島津久光を次の藩主にしようと画策していました。
そのため、島津斉彬は30歳台後半になっても藩主の座に就けないでいました。
島津久光を藩主にしようとしていたのは島津斉興やお由羅の方だけではありません。島津久光派の急先鋒とされていたのが、薩摩藩の財政を立て直し家老にまで上り詰めていた調所広郷(ずしょひろさと)でした。
島津斉興やお由羅の方、そして調所広郷などの島津久光派は島津斉彬の失脚を画策し、実際に島津久光が藩主になる直前まで追い詰められてしまいます。
そこで一計を案じたのが島津斉彬です。調所広郷は確かに薩摩藩の財政を立て直しています。しかし、立て直し策の中には琉球などとの密貿易も含まれていました。密貿易はもちろん重罪です。
そこで、島津斉彬は老中である阿部正弘にこのことを訴えます。阿部正弘は調所広郷が江戸に来た際に呼び出し密貿易を糾問。さらに密貿易は藩主である島津斉興が命じたのではないかと問いただします。
糾問された調所広郷は主君の島津斉興を守るために服毒自殺(1848年12月)。これがお由羅騒動の引き金となります。
調所広郷が亡くなったことにより島津久光派は追い詰められます。 また、薩摩国では、島津斉彬派と島津久光派の対立が激化します。
そこで起きたのがお由羅騒動です。
島津斉興は島津斉彬派の多くのメンバーに対して、切腹・遠島・蟄居を命じ、島津斉彬派はその勢いを大きく削がれてしまいます。
しかし、島津斉彬派で処分を免れた武士たちが薩摩国を逃れ、最終的にはそのことが阿部正弘の耳にも入ります。
阿部正弘は第12代将軍徳川家慶(とくがわいえよし)に報告。やがて、将軍の勧告により島津斉興は隠居。 島津斉彬は晴れて藩主となり、お由羅騒動の終息を迎えます。
お由羅騒動は薩摩藩の後継者争いですが、間接的とはいえそのきっかけを作ったのも終わらせたのも、江戸幕府の老中であった阿部正弘というのは興味深いとこです。
さいごに
この記事では、阿部正弘が締結した日米和親条約や、薩摩藩の島津斉彬との関係などを中心にご案内をしてきました。
阿部正弘は江戸幕府においては血統も良く、能力もありました。ただ、時代は大きな変革期。阿部正弘といえども、大きなエネルギーに生涯を翻弄されてしまった。そんな気がします。
しかし、阿部正弘が締結した日米和親条約は、その後の日本に大きなうねりをもたらすきっかけになったのは事実。
阿部正弘の力により島津斉彬が薩摩藩主になり、島津斉彬により薩摩藩から多くの人物を輩出したのも事実です。
短命に終わったとはいえ、阿部正弘が歴史の中で果たした役割はことのほか大きかったと言えそうです。
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