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はじめに
佐久間信盛(さくまのぶもり、1528年頃~1582年)は戦国時代末期の武将で、最初は織田信秀、織田信秀が亡くなった後は嫡男の織田信長に仕えます。佐久間信秀は織田信長の重臣として活躍するものの、織田信長からその後の運命を決めた書状(折檻状)を突きつけられ追放。
追放された高野山あるいは熊野の地で最期を迎えたと伝えられています。
この記事では、佐久間信盛が最期を迎えるまでの生涯、そして佐久間信盛の運命を大きく変えた織田信長の書状の内容を簡単にお伝えします。
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佐久間信盛の前半生
佐久間信盛が最初に仕えたのは織田信秀(1511年~1552年)で、後に織田信秀の命により家督を継ぐ前の織田信長(1534年~1582年)に仕えます。織田信秀が急死して、すぐに起こったのが織田家の後継者問題です。
嫡男ながらも織田信長はうつけ者と言われていたのに対し、弟の織田信勝はいわゆる常識人でした。
そのため、織田家内部でも織田信長を推す家臣と、織田信勝を推す家臣に二分され、争いが起こります。
この時、佐久間信盛は織田信長につき、織田信長が家督を相続して以降は重臣として活躍します。
家督相続の争いに勝利し、1560年の桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った織田信長は、その後は他国へ進出していきます。
佐久間信盛は織田信長の命により各地を転戦。
戦いでは先鋒を任されることが多かったものの、一方では「退き佐久間」という異名も知られています。
戦は先鋒も大切ですが、負け戦となったときに味方を無事に退却させるため、最後まで敵に向き合う「殿(しんがり)」はとても難しく重要な役割とされています。
退き佐久間という異名は、佐久間信盛が殿においても優れた武将であったことを意味してます。
また、佐久間信盛は外交の役割も果たしています。
たとえば、織田信長の娘徳姫が、徳川家康の嫡男松平信康の元に嫁ぐときの差配。
あるいは、戦国三大梟雄の一人ともいわれる松永久秀との交渉、松永久秀と犬猿の仲と言われていた筒井順慶との和睦。
佐久間信盛は武将としてだけでなく、官僚としても重用されていたようです。
しかし、織田信長と佐久間信盛の間には、いつしか不穏な空気が流れ始めます。
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佐久間信盛が最期を迎えるまでと書状の主な内容
1572年、三方ヶ原の戦いが起こります。三方ヶ原の戦いは徳川家康と武田信玄の戦いで、織田信長は徳川家康に援軍の兵3千人を送ります。
この時、指揮を執ったのが佐久間信盛・水野信元・平手汎秀ですが、佐久間信盛は武田軍を見て勝ち目はないと判断し退却。
結果的に徳川家康は大敗を喫するとともに、戦いに加わった平手汎秀は討死します。
この件で、佐久間信盛に対する処分はなかったものの、後の織田信長の書状にこの一件のことが書かれてます。
1573年、長年の敵であった越前国の朝倉義景が織田軍に敗れ、領国に退却を始めます。
このとき佐久間信盛が朝倉軍の追撃をしなかったため、多くの家臣がいる前で織田信長より叱責。
しかし、佐久間信盛は「我々は織田家にとって優秀な家臣です」と抗弁したため、織田信長を激怒させます。
このときも処分を免れたものの、織田信長の書状にこの一件のことも書かれてます。
1575年、織田信長は武田勝頼と戦います。
この時、味方の水野信元(徳川家康の叔父)が、籠城している武田家の武将秋山信友に兵糧を送り込んでいるという疑いが掛けられます。
このことを知った織田信長は激怒し、徳川家康に命じて水野信元を切腹に追い込みます。
織田信長に水野信元謀反の疑いを報告したのは佐久間信盛で、水野信元の旧領は佐久間信盛に与えられています。
しかし、佐久間信盛は所領が増えたにも関わらず、新たに武将を雇い入れるなどの努力をすることをしませんでした。
書状では、この件も触れられています。
1580年、織田信長と長年にわたって敵対していた本願寺との和睦が成立。
当時の佐久間信盛は織田信長の筆頭家老として、織田家内部でも最大の軍団をまとめる立場で、本願寺との戦いでも中心を担っていました。
佐久間信盛にしてみれば肩の荷がおりたという心境だったのかもしれませんが、この直後に織田信長より書状(折檻状)が下されます。
書状は19か条からなり、先にお伝えした3つの事件だけでなく、本願寺攻めに時間がかかりすぎていること、柴田勝家・明智光秀・羽柴秀吉などと比べても働きが悪いこと。
さらに、佐久間信盛の長男佐久間信栄(1556年~1632年)も父と同じように怠惰であるなど、激烈な言葉で佐久間信盛父子を糾弾。
佐久間信盛は高野山に追放され、2年後の1582年、本能寺の変が起こる少し前に高野山又は熊野の地で亡くなったとされます。
なお、佐久間信盛の死因は定かではありませんが、一説には餓死したとも言われてます。
さいごに
織田信長の重臣として活躍しながらも、追放された地で最期を迎えた武将佐久間信盛の生涯と織田信長の書状の内容を簡単にお伝えしました。この記事の最後に、佐久間信盛追放に関して、その他のことをいくつかご紹介します。
佐久間信盛の追放は讒言だった?
いくつかの理由があったとはいえ、織田信長の書状はあまりにも急に出された感があります。佐久間氏側の文書には、織田信長をそそのかした者がいて、それは明智光秀ではないかと書かれています。
実際に明智光秀は佐久間信盛が追放された後に、佐久間信盛が担当していた畿内方面の軍団長になっているので可能性はありそうです。
ルイス・フロイスの評価
ルイス・フロイスは宣教師として織田信長と接点があった人物で、後に「日本史」という書を残しています。日本史には織田信長だけでなく多くの人物評が書かれていて、明智光秀や佐久間信盛についても触れられています。
明智光秀については、織田信長には狡猾さを発揮して寵愛されたこと、裏切り・密会を好む人物であることなど、評価は相当に辛辣です。
佐久間信盛については、思慮があり、礼儀正しく、武将としても優れていると概ね良い印象が持たれてます。
ルイス・フロイスがどの程度客観的評価ができているのかは不明ながらも、このことも明智光秀が讒言して佐久間信盛を追い落としたということを示唆するものかもしれません。
佐久間信栄のその後
佐久間信盛とともに子の佐久間信栄も追放されています。では、その後の佐久間信栄はどうなったのでしょうか。
佐久間信盛の死後、佐久間信栄は赦免され織田信長の嫡男織田信忠の家臣になります。
織田信長の書状により、佐久間信盛とともに追放された佐久間信栄ですが、改めて織田信忠の家臣になっていることから、実際は追放されるほどの罪はなかったとも考えられます。
本能寺の変で織田信忠が亡くなった後は、織田信長次男織田信雄の家臣、織田信雄が豊臣秀吉により改易された後は豊臣秀吉に仕えます。
もっとも佐久間信栄に武将としての才覚はなかったようで、豊臣秀吉には茶人として出仕。
さらに豊臣家滅亡後は徳川秀忠の御咄衆として仕え、佐久間信栄亡き後も佐久間家は旗本として存続します。
佐久間信盛と比べると所領は大きく減らしていますが、織田氏・豊臣氏・徳川氏と主君を変えながらも生き抜いた佐久間信栄の処世術は見事であったようです。
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