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日本史

明智光秀と織田信長の関係を本能寺の変までご紹介していきます!

本能寺の変の石碑

明智光秀と織田信長の関係をご紹介します

この記事では、明智光秀と織田信長の関係を出会いから本能寺の変まで、時系列でご紹介していきます。

ところで、明智光秀はわからないことが多い武将と言われています。

まず生年がわかりません。

明智光秀の生まれた年は諸説あります。1534年生まれの織田信長より年長とする説が多いものの、織田信長よりも後に生まれたという意見もあります。

また、前半生も不明です。名族土岐氏の一族という説が有力であるものの、これも確証があるわけではありません。

生まれた年も、前半生もわからない部分が多い明智光秀ですが、織田信長との関係が生まれて以降、事績が明らかになってきます。

それでは、明智光秀と織田信長の関係を、本能寺の変まで時系列でお伝えしていきます。

明智光秀と織田信長との関係1 二人が出会うまで

坂本城址の明智光秀像
どのような経緯であったかは不明ですが、明智光秀は越前国の戦国大名朝倉義景に仕えていました。

何もなければ明智光秀は一生涯朝倉家に仕えていたかもしれません。

ところがある人物が朝倉義景を頼ってきたことで、明智光秀の運命は大きく変わります。

その人物こそ、室町幕府第13代将軍足利義輝の実弟で、後に第15代将軍になる足利義昭です。

しかし1565年、足利義輝は三好三人衆に暗殺され、第14代将軍には足利義輝の従兄弟にすぎなかった足利義栄が就いています。

そのため僧籍に入っていた足利義昭は幽閉され、命さえも危ない状況でしたが、逃げ延び各地を転々とします。

その結果として頼ったのが朝倉義景です。

足利義昭が朝倉義景に期待をしたのは、朝倉家が上洛をして足利義栄を廃したうえで自らが将軍の座に就くことでした。

しかし、朝倉義景は足利義昭を迎え入れるものの、上洛をすることには消極的でした。

足利義昭は朝倉義景に見切りをつけ、次に頼ったのが織田信長です。

織田信長は1560年に今川義元を桶狭間の戦いで破り、さらにこの頃には美濃国の斎藤家を滅ぼし、尾張国と美濃国を手中に治める戦国大名に成長をしています。

ただ足利義昭は織田信長との交渉に際して、その人材に苦慮していました。

足利義昭には細川藤孝など有能な家臣はいました。しかし細川藤孝は織田家に縁がありません。

そこで登場するのが明智光秀です。

明智光秀は美濃国の土岐氏の一族であったという説があります。

さらに織田信長の正室は濃姫ですが、濃姫と明智光秀は従兄弟であったという説もあります。

この点についての確証はありませんが、少なくとも細川藤孝よりは織田信長に近い存在であった可能性は高いようです。

そこで明智光秀は朝倉家の家臣であると同時に、足利家の家臣であるという身分を得たうえで、織田信長との交渉の任に当たります。

 
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明智光秀と織田信長との関係2 足利義昭が追放されるまで

足利義昭の願いを受け入れた織田信長は1568年に上洛を始めます。

それまで、朝倉家と足利家の家臣という二重の身分を持っていた明智光秀は、この時点で朝倉家から離れています。

そして今度は足利家の家臣であると同時に、織田家の家臣という身分で上洛の列に加わっています。

上洛は円滑に進み織田信長は京都に入ります。

そして羽柴秀吉や丹羽長秀とともに、明智光秀も京都の治安の任に当たっています。

織田信長に仕えた最初の頃から、明智光秀は重要な役割を与えられていたことがわかります。

織田信長が明智光秀を重用した理由としては

・ 足利家の家臣であったので重く用いる必要があった。

・ 濃姫と縁のある人物だったので重く用いる必要があった。

などが考えられますが、織田信長は忖度をするような人物ではなく、能力第一主義であったといわれています。

・ 明智光秀に能力があったことを瞬時に見抜いていた。

・ 京都の政情に織田家のだれよりも精通していた。

などの理由の方が、よりしっくりとくるのではないでしょうか。

明智光秀は足利家と織田家の家臣という二重の身分を有していたものの、この時点ではむしろ足利義昭に近かったと思われます。

ただし、明智光秀は織田信長より兵力も与えられていて、そこで得た武功が1570年の姉崎の戦いです。

姉崎の戦いは、織田家と朝倉家の戦いです。

織田信長は上洛を果たして後、第15代将軍となった足利義昭の名前で、朝倉義景に上洛を命じます。

しかし朝倉義景は2度にわたってこれを拒否。

将軍の命令に逆らったという理由で、織田信長が朝倉義景征討に向かい発生したのが姉崎の戦いです。

姉崎の戦いは織田家に有利だったものの、この時、織田家と縁戚関係にあった浅井長政が裏切り、織田信長は前面に朝倉義景、背後に浅井長政の攻撃を受けることになり撤兵を決意します。

このとき、織田信長を逃がすために殿(しんがり)を務めたのが、羽柴秀吉と明智光秀。

織田信長が逃げ延びたことで、羽柴秀吉と明智光秀の評価が大きく上がるとともに、二人の武将の出世競争も始まります。

さて、織田信長の力で将軍の座に就いた足利義昭ですが、すぐに自らが傀儡の将軍にすぎないことに気が付きます。

そこで足利義昭が行ったのが、織田信長包囲網を築くこと。各地の武将などに働きかけ織田信長包囲網を築くことに成功をします。

この数年間が織田信長にとって、もっとも厳しい時期だったのかもしれません。

明智光秀は、足利義昭と織田信長の二人に仕える立場を維持していたものの、足利義昭に見切りをつけ始めています。

また、実際に織田家の武将として活躍することも多くなります。

この時期で一番目立っているのは比叡山の焼き討ち。

1571年、織田信長包囲網の一つであった比叡山が焼き討ちされていますが、明智光秀はその中心になり任務を遂行しています。

明智光秀が足利義昭と完全に袂を分けたのは1573年のこと。

その直後に、足利義昭は槇島城に籠城しますが、攻城戦に明智光秀も参加。

降伏をした足利義昭は追放され、15代続いた室町幕府は実質的に滅亡をしています。

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明智光秀と織田信長との関係3 京都御馬揃えまで

その後も、織田信長の命により明智光秀は各地を転戦します。

この時期の出来事としては、1575年に惟任(これとう)の姓を与えられたことがあげられます。

惟任というのは、九州の名族の姓です。

織田信長は天下布武の元、全国統一を狙っていて、視線の先には九州もありました。

九州侵攻の際に、九州では知られた武将が織田家の中にいれば、より円滑に平定をすすめることができます。

そのため惟任の姓が与えられたと考えられますが、言い換えれば織田信長がそれだけ明智光秀を重用していたという証拠にもなります。

なお、この時に織田家の譜代の家臣である丹羽長秀に、同じく九州の名族である惟住(これずみ)の姓が与えられていますが、織田信長は九州平定を明智光秀と丹羽長秀に命じようと考えていた可能性があります。

明智光秀は織田信長より丹波国・丹後国平定を命じられます。

この段階になると、明智光秀は織田家の軍団長に上りつめています。

時期は少しずれますが、織田家には5人の軍団長がいたと考えられています。

関東地方は滝川一益、北陸地方は柴田勝家、中国地方は羽柴秀吉、四国地方は丹羽長秀、そして近畿地方が明智光秀になります。

織田信長は各地方に戦力を分散させているので、自身はそれほどの兵力を持っていなかったとされています。

そうすると織田信長の一番近くにいた明智光秀が、織田信長直轄軍に近い役割を果たしていたとも考えられます。

丹波国・丹後国平定を命じられていた明智光秀ですが、実際には近畿圏を中心にあちこちの戦場に臨んでいます。

そのため時間はかかっていますが、1579年になると丹波国・丹後国平定を成し遂げています。

ところで織田信長は能力第一主義で、戦功をあげていない武将に対しての遠慮はありませんでした。

佐久間信盛という武将は織田家譜代の武将で重用もされていました。

しかし武功が少なかったことを織田信長にとがめられ、1580年に追放されています。

このとき佐久間信盛にあてた書状の中に、佐久間信盛の働きに比べると明智光秀の働きは比べ物にならない旨が書かれています。

他のだれでもなく明智光秀の働きを認めたことは特筆に値します。

1581年、明智光秀は京都御馬揃えを責任者の役割を与えられています。

京都御馬揃えは天皇に見せる観閲式のようなもので、織田家の威勢を示すものです。

その責任者になるということは名誉であるとともに、とても重い責任を負うことになります。

織田信長にしても、人選に慎重であったはずです。

当時の明智光秀は、丹波国・丹後国を平定して一段落をしていました。また、その他の武将は京都より遠い場所の戦場に臨んでいました。

そんな理由があったのかもしれませんが、大役であることは確かです。

京都御馬揃えを成功させた明智光秀は、明智家の家法の中で、

・ 身分もはっきりしていない私を織田信長が取り立ててくれた。

・ 織田信長は莫大な所領と兵を与えてくれた。

・ 明智家は子孫の代になるまで織田家に忠誠を誓うべきだ。

などを記しています。

京都御馬揃えは1581年。しかし、翌年の1582年に本能寺の変が起こっています。

明智光秀と織田信長との関係4 本能寺の変まで

現在の本能寺本堂
1581年の段階では、織田信長は明智光秀を重用し、明智光秀も織田信長に崇敬の念を見せています。

どうして、たった1年の間に本能寺の変に至ったのでしょうか。

1582年3月に織田家の長年の敵であった武田家が滅亡をしています。武田家の攻略に尽力をしたのは織田家と同盟関係にあった徳川家です。

そのため織田信長は徳川家康を招き、その饗応役を明智光秀に命じます。

しかし、理由ははっきりとしませんが明智光秀はその任を解かれ、中国出兵を命じられています。

中国地方の司令官は羽柴秀吉。そして、織田信長の命令は羽柴秀吉の指揮下に入り中国の毛利氏を攻略することでした。

居城の坂本城に戻った明智光秀は軍勢を整えて出陣をします。しかし、向かったのは中国地方ではなく、織田信長のいる京都です。

そして本能寺の変が起こり、織田信長は最期を迎えたとされています。

明智光秀と織田信長の関係が生まれたのは1568年の頃。

明智光秀と織田信長の関係が終わったのは1582年。

明智光秀と織田信長に直接の関係があったのは、せいぜい15年程度であったことがわかります。

さいごに

本能寺の変で織田信長を倒した明智光秀ですが、中国地方にいた羽柴秀吉が急遽戻り、山崎の戦が始まります。

山崎の戦は羽柴秀吉の圧勝に終わり、明智光秀は居城に戻る途中に落ち武者狩りに会い自害をしたと伝えられています。

本能寺の変から山崎の戦まではわずか11日。

その間、明智光秀が京都で政務を執ったのが3日間であることから「明智の三日天下」と言われています。

ところで、明智光秀については生年も出自もはっきりとしていません。織田信長と関係が生まれるまでの経緯も諸説あります。

明智光秀については分からないことばかりです。

そして最もわからないのは、明智光秀がどうして本能寺の変を起こしたのかです。

明智光秀が謀反を起こした理由はさまざまに言われていますが、確たるものはありません。

また、明智光秀は本当に山崎の戦いで亡くなったのかについても異説があります。

こちらについては伝説的な色合いが強いようですが、明智光秀は生き延びたという説もあります。

明智光秀は歴史上とても有名な人物ですが、実は分かっていることがあまりにも少ない不思議な武将といえそうです。

 
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