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榊原康政とは
この記事では榊原康政とはということで、榊原康政はどんな武将だったのかご紹介します。榊原康政は、酒井忠次、本多忠勝、井伊直政とともに徳川四天王の一人に数えられる人物です。
徳川四天王の中で知名度は低いかもしれませんが、かといって実績は他の武将に劣るものではありません。
また、直接の武功とはいえないかもしれませんが、榊原康政の檄文の逸話は有名です。
それでは檄文の逸話を含めて、榊原康政がどんな武将だったのかを時系列でお伝えします。
榊原康政とは1 本能寺の変まで
榊原康政は1548年に生まれます。主君の徳川家康は1542年の生まれなので6歳の年少です。徳川四天王の仲では、酒井忠次は1527年生まれで年長、井伊直政は1561年生まれで年少ですが、本多忠勝は1548年生まれで榊原康政とは同い年です。
榊原康政が徳川家康の小姓として取り立てられたのは、1560年、桶狭間の戦いの直後で榊原康政12歳の頃です。
徳川家康が今川家からの独立を図った直後、1563年に徳川家を二分した三河一向一揆が起こります。
榊原康政はこの時が初陣で武功を挙げ、徳川家康から一字をもらい榊原康政となります。
19歳で元服を果たした榊原康政ですが、同じ時期に本多忠勝も抜擢され、この頃より榊原康政と本多忠勝の競争が始まります。
徳川家康が携わった戦いの多くに、榊原康政も参陣し多くの武功をあげています。
1572年の三方ヶ原の戦いは、徳川家康が武田信玄に大敗を喫した戦として知られています。
三方ヶ原で散々に打ち破られた徳川家康は、早々に浜松城に逃げ込みます。
しかし、兵の多くは戦場に取り残されたままで、放っておくとさらに被害が多くなる状況に陥っていました。
榊原康政は浜松城の中に入らず、場外で味方の兵を集めます。
そして、武田軍の中に入り混乱させている間に、逃げ遅れた徳川方の兵の多くを浜松城内に収容します。
また1575年の長篠の戦いは、織田・徳川連合軍が武田勝頼を打ち破った戦いとして有名ですが、この戦いのさなか徳川家康は敵に攻め込まれ命の危険にさらされています。
このとき徳川家康を守ったのが、榊原康政と本多忠勝と言われています。
1582年の本能寺の変の時、徳川家康は織田信長の誘いで堺を遊覧していました。織田信長を倒した明智光秀は、次に徳川家康を狙います。
一時期、徳川家康は切腹を覚悟しますが、これを押しとどめたのは本多忠勝。
三河国に戻ることを決断した徳川家康は、有名な伊賀越えを果たし三河国に戻りますが、本多忠勝だけでなく榊原康政も同行して徳川家康を守っています。
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榊原康政とは2 小牧長久手の戦いと檄文の逸話
本能寺の変後、すぐに明智光秀を討ったのが豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)で、さらに1583年の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、天下取りへの野望をあらわにします。そして、1584年には小牧長久手の戦いが起こります。
小牧長久手の戦いは、豊臣秀吉と織田信雄の戦いですが、徳川家康が織田信雄に味方したため、豊臣秀吉と織田・徳川連合軍の図式になっています。
小牧長久手の戦いで有名になったのが榊原康政の檄文で、榊原康政は豊臣秀吉を挑発するため、次のような立札を立てています。
(意訳)
羽柴秀吉は元々は身分も低く、武将の周りを駆け回る軽輩に過ぎなかった。
それが、織田信長に取り上げられて現在の地位を築いている。
しかし織田信長が亡くなると大きな恩を忘れ、織田信長三男の織田信孝を死に追いやるばかりでなく妻や娘も亡きものにし、今度は織田信長次男の織田信雄を倒そうとしている。
羽柴秀吉の大逆無道ぶりは、見ることさえ憚られる。
そこで徳川家康は織田信長の恩に報い、織田信雄を助けるために決起した。
檄文を知った豊臣秀吉は激怒し、榊原康政を討ち果たした者には10万石を与えると触れを出しています。
さて、小牧長久手の戦いが終わり、徳川家から豊臣家に使者を出すことになります。豊臣秀吉から使者として指名されたのが榊原康政です。
榊原康政は処分されることを覚悟して豊臣秀吉と対面しますが、この時に戦いの最中はともかく和睦した今となっては、むしろその志は天晴であると讃えられています。
小牧長久手の戦いにおける檄文の逸話は、豊臣秀吉の器量の大きさを示すものとして知られていますが、榊原康政の武将としての覚悟のほどを示す逸話にもなっています。
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榊原康政とは3 関ケ原の戦いと亡くなるまで
1590年小田原征伐が行われ、北条氏滅亡後は豊臣秀吉の命で徳川氏が関東に入ります。この時、徳川家の家臣にも新たな領地が与えられています。
最も多くの石高を与えられたのは、徳川四天王の一人井伊直政の12万石です。
榊原康政は2番目に多い10万石で、上野国館林の地を与えられています。また、本多忠勝も榊原康政と同じ10万石でした。
1600年の関ケ原の戦いでは、徳川秀忠に従い軍監として中山道を西に向かいます。
徳川秀忠は、榊原康政など諸将の反対にも関わらず、途中の上田城攻めに執着。
上田城に籠る真田昌幸に翻弄され、時間を費やすだけでなく、関ケ原の戦いにも間に合わず、徳川家康に激怒されます。
このときも榊原康政は間に立ち、最後は徳川家康も徳川秀忠の遅参を許したと伝えられています。
もっとも榊原康政が表立って活躍するのはこの頃まで。
徳川四天王の中でも酒井忠次はすでに亡くなっていますが、榊原康政や本多忠勝は江戸幕府の中枢から離れ、井伊直政も関ケ原の戦いでの負傷が元で1602年に亡くなっています。
関ケ原の戦いは天下分け目の戦いと言われていますが、徳川家康が勝利を得たことで、家臣の役割も変わってきます。
関ケ原の戦い前は武略に優れたものが中心でしたが、以降は政治手腕に優れた本多正信や大久保忠隣が取り立てられ目立った活躍を見せるようになります。
1606年、榊原康政は館林で病死、59歳の生涯を閉じています。
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榊原康政とはどんな武将だったの
この記事の最後に、榊原康政とはどんな武将だったのかについて簡単に触れておきたいと思います。徳川四天王の中でも、榊原康政と比較されるのが同い年の本多忠勝です。
本多忠勝は何といっても武勇で知られた武将で、榊原康政は武勇では本多忠勝に少し劣るとされていました。
しかし、部隊の指揮官としての能力は本多忠勝より優るとされています。
この記事でもご紹介しましたが、三方ヶ原の戦いの時の行動はそれを如実に示すものですし、他の戦いでも指揮者としての能力が評価されています。
榊原康政と本多忠勝は終生ライバルの関係にあったようです。
ライバルは時として仲が悪いとされますが、榊原康政と本多忠勝はとても仲が良かったと言われています。
それは、互いに能力を認め合っていたからではないでしょうか。
徳川四天王に数えられるだけあって、榊原康政も本多忠勝もひとかどの武将であったのは間違いないようです。
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