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はじめに
この記事では、松平信康が切腹するまでの生涯を簡単にお伝えします。また、松平信康が切腹した理由については2つの有力な説があります。
合わせて、その理由についてもご紹介します。
徳川家康の嫡男は松平信康という名前で知られています。しかし父の徳川家康が松平から徳川に改姓したのは1566年。
1559年生まれの信康(当時は竹千代)も、松平信康ではなく徳川信康と名乗っていた可能性があります。
しかし、この記事では一般的に知られている松平信康の表記に統一して書き進めていきます。
松平信康が切腹に至るまでの生涯
1559年、松平信康は徳川家康(当時は松平元康)と正室築山殿の長男として誕生します。幼名は竹千代。
徳川家康の祖父松平清康の幼名は竹千代、父の松平広忠の幼名も竹千代(幼名については諸説あります)、また徳川家康自身の幼名も竹千代。
松平信康は嫡男で、生まれながらにして後継者だったことが分かります。
もっとも、松平信康が生まれたのは桶狭間の戦いの前。
父の徳川家康は西三河を治める武将でありながらも、実際は今川家の人質として駿府で生活してました。
また、母の築山殿の実家は今川氏の縁戚に連なる一族です。
今川義元がそのままの勢力を維持していれば、徳川家康は今川氏の有力武将の一人として生涯を送るはずでした。
しかし、1560年に今川義元は桶狭間の戦いで討死します。
桶狭間の戦いでは徳川家康も活躍しますが、戦いの後は駿府に戻ることなく、本来の居城であった岡崎城に入ります。
徳川家康にとっては念願の帰還だったかもしれませんが、妻の築山殿と嫡男の松平信康は駿府に残ったまま。
今川義元の後継となった今川氏真から見たら、徳川家康の行動は敵対行為で、一時は築山殿や松平信康は死を覚悟しなければいけない状況に追い込まれます。
このときは、徳川家康も今川氏一族の鵜殿氏を捕えていたため、人質交換で築山殿や松平信康は松平家に戻っていますが、松平信康は幼児の頃より数奇な運命に見舞われています。
1562年、徳川家康は織田信長と清洲同盟を結び、その一環として織田信長の娘徳姫が松平信康のもとに輿入れします。
実際に結婚したのは1567年、2人とも幼いながらも、1570年になると松平信康は元服するとともに岡崎城の城主になります。
初陣は1573年。
松平信康は勇猛な武将で将来を期待されますが、1579年に父の徳川家康により岡崎城を退去させられ、いくつかの城を転々とした後、二俣城において切腹を命じられています。
亡くなったのは、現在でいえば満20歳。
あまりにも早すぎる死、しかも切腹ということで、その理由については大きく2つのことが言われています。
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松平信康切腹の理由1 織田信長指示説
松平信康切腹の理由として、かつて一番有力だったのは織田信長指示説であったように思われます。築山殿や松平信康に謀反の疑いがあり、それを知った織田信長が徳川家康に命じて、2人を死に追いやった。
これが、織田信長指示説です。
では、そのあたりをもう少し詳しくお伝えします。
まず、端緒となったのが築山殿の存在です。
築山殿は今川氏の一族に連なる女性で、しかも夫の徳川家康よりかなり年上であったことから、結婚当時の立場は圧倒的に築山殿が上だったと考えられます。
しかし桶狭間の戦いで状況は一変。
織田信長と組んだ徳川家康から見たら、築山殿はむしろ敵側の人間になります。
徳川家康がどのように考えていたのかは別にしても、家臣から見たらそうした認識があっても不思議ではありません。
また、徳川家康の母お大の方は築山殿を嫌っていたといわれてますし、松平信康の正室徳姫は織田信長の娘で嫁姑の関係です。
ストレスをためた築山殿は、甲斐国から唐人医師減敬を招いたところ密通し、さらには甲斐国の武田勝頼と内通するに至ります。
また、松平信康は武将としては有能であったものの、家臣に対して傍若無人な振る舞いが多く、さらには妻の徳姫に対しても無礼な振る舞いが多く夫婦仲が冷え切っていきます。
今度は、ストレスをためた徳姫が父の織田信長に手紙を書き、築山殿が武田勝頼と内通していること、松平信康と不和になっていることなど、12か条にわたって築山殿と松平信康を糾弾。
その内容に驚いた織田信長は、徳川家重臣の酒井忠次を呼び出し確認したところ、酒井忠次は否定するどころか多くを認めたため、織田信長は激怒。
築山殿と松平信康を葬ることを命じます。築山殿は徳川家家臣により殺害され、松平信康は切腹に追い込まれます。
松平信康切腹の理由で織田信長指示説はとりわけ有力でした。しかし、現在ではいくつもの疑問が呈されています。
たとえば、築山殿に関して言えば、築山殿と減敬の仲について確証はありません。
さらに、築山殿が徳川家を裏切ったとしても、築山殿が徳川家に影響を及ぼすことができるほどの力を持っていたのかも疑問です。
また、松平信康について粗暴は事実だとしても、それだけで義父の織田信長が松平信康に切腹を命じるものなのかについては疑問が残ります。
一つの考えとして、織田信長が自分の後継である織田信忠よりも、松平信康の方が武将としての器がはるかに大きかった。
そのため、将来の織田家の安泰に危機感を抱いた織田信長が、徳川家成長の芽を摘んでおくため切腹を命じたというのもありますが、これは小説の話しで確証はないようです。
何れにしても、織田信長指示説による松平信康切腹というのは、説としては以前より弱まっているよう見受けられます。
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松平信康切腹の理由2 徳川家康主導説
最近、有力になっているのが徳川家康が主導して、松平信康を切腹に追い込んだというものです。たとえば、武田信玄は父の武田信虎を追放して甲斐国を手中に収めました。
また、斎藤義龍は父の斎藤道三を長良川の戦いで討ち果たしています。
これは、どちらも親子間の不和から発展した出来事ですが、徳川家康と松平信康も不和であったと言われています。
武田信玄や斎藤義龍と異なるのは、この両者は子が父を追い落としたのに対して、徳川家康は機先を制して子の松平信康を切腹に追い込んだというものです。
不和の原因は定かではありません。
もっとも過激なところでは、松平信康が謀反を企てたということが言われています。
それ以外では、松平信康が成長するに伴い、父徳川家康の指示に従わないようになった。
また、徳川家康は浜松城、松平信康は岡崎城と別の場所に拠点を置いていたため、一層のこと意思の疎通が困難になってしまった。
それだけでなく、それぞれには多くの家臣がいて、家臣団も浜松城派と岡崎城派に分かれ、徳川家を二分する可能性もでてきた。
こうしたことを背景に、徳川家康が織田信長に相談し、織田信長の内諾を得て松平信康に切腹を命じたというものです。
徳川家康は、松平信康に切腹を命じる前から、家臣たちに松平信康の居城の岡崎城に近づかないよう命じています。
また、松平信康切腹に際しては、松平信康の家臣の多くを処罰しています。
こうしたことを見ると、徳川家康と松平信康は単に親子の争いという範疇を超えて、徳川家家臣団にも大きな影響を及ぼしていたことが読み取れます。
松平信康の切腹は織田信長指示説というよりも、事前に周到に準備していた徳川家康主導説が有力になっているのも頷けるところです。
まとめ
松平信康が切腹に追い込まれた理由については、今でも確定には至っていないようです。ただ、背景としては徳川家康と築山殿の関係性が大きな影響を及ぼしていた可能性は高いように思われます。
桶狭間の戦いまでの徳川家康は間違いなく今川方の人間であり、今川家の一族である築山殿も尊重されるべき女性でした。
しかし、桶狭間の戦い後の徳川家康は、今川家を見限り織田信長に接近します。
築山殿としては面白いわけもなく、鬱屈した時間を多く過ごしたことも容易に想像できます。
また松平信康も、父の徳川家康よりも、母の築山殿と接する時間が圧倒的に長かったのも事実です。
松平信康が亡くなったときの年齢は僅か20歳。多感な青年期を築山殿と過ごしたことは、松平信康の性格形成に大きな影響を及ぼしたのではないでしょうか。
史料が残ってないので推測の域を出ませんが、徳川家康と松平信康対立の原点はそんなところにもあったように思われます。
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