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前野良沢・杉田玄白・大槻玄沢と解体新書の関わりとは

はじめに

前野良沢・杉田玄白・大槻玄沢と解体新書について書いていきます。

まずは、前野良沢・杉田玄白・大槻玄沢のそれぞれの略歴について、ご紹介をしていきます。

前野良沢・杉田玄白・大槻玄沢

前野良沢(まえのりょうたく)とは

前野良沢は、1723年に生まれ、1803年に亡くなります。

福岡藩士の子として生まれた前野良沢でしたが、幼くして両親とは離別。

親せきである医師の宮田全沢に養育された後、中津藩の医師前野家の養子となります。

中津藩の藩医となった前野良沢は長崎へも留学し、オランダ語も学びます。

もっとも前野良沢のオランダ語に対する理解は、単語を理解することはできても堪能とまではいかなかったと伝えられています。

杉田玄白(すぎたげんぱく)とは

杉田玄白は、1733年に生まれ、1817年に亡くなります。

杉田玄白は、前野良沢より約10歳の年少であったようです。

杉田玄白は、小浜藩の医師の子として生まれ、小浜藩の藩医にもなります。

その後、町医者となったり、小浜藩の奥医師となったりする杉田玄白も、オランダ語の習得を志します。

もっとも、オランダ語の通詞(通訳)からその困難さを指摘されたことで断念。

杉田玄白にはオランダ語に対する素養はなかったようです。

なお、杉田玄白はその晩年に「蘭学事始」(らんがくことはじめ)を記したことでも知られています。

大槻玄沢(おおつきげんたく)とは

大槻玄沢は、1757年に生まれ、1827年に亡くなります。

大槻玄沢は、一関藩の藩医の子として生まれます。

大槻玄沢は20歳を過ぎたころ江戸に上り、オランダ語を前野良沢、医学を杉田玄白に学びます。

大槻玄沢は前野良沢や杉田玄白の弟子。

そして、大槻玄沢の「玄」の字は杉田玄白、「沢」の字は前野良沢から、一字ずつをいただいて大槻玄沢となっています。

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解体新書とは


 

 

 

 

 

 

 

前野良沢・杉田玄白は解体新書発刊まで、それぞれが深い関わりを持っています。

また、大槻玄沢も解体新書に深い関わりがあるようです。

では、そもそも解体新書はどのような形で世に出たのでしょうか。

1771年のことです。

江戸で、刑死した人の解剖を行うことになりました。

このとき立ち合いを認められたのが、医師である前野良沢と杉田玄白と中川淳庵(なかがわじゅんあん 1739年~1786年)です。

立ち合いをした3人の医師ですが、前野良沢と杉田玄白は「ターヘル アナトミア」を持参していました。

※ 「ターヘル アナトミア」とは、ドイツ人医師が執筆した解剖学書でオランダ語に翻訳された本です。

※ 前野良沢がターヘル アナトミアを入手したのは、1770年の長崎留学に際してと言われています。

※ 杉田玄白がターヘル アナトミアを入手したのは、たまたま江戸にいたオランダ商館長からの購入と言われています。
オランダ商館長がターヘル アナトミアを持っているとの情報を入手したのは中川淳庵。しかし、中川淳庵は高額なターヘル アナトミアを買うことができず、杉田玄白が小浜藩のお金で購入をしています。

解剖に立ち会った前野良沢と杉田玄白と中川淳庵は、ターヘル アナトミアと解剖で取り出された内臓を見て、ターヘル アナトミアの正確さに驚嘆。

これが解体新書発刊の契機になっています。

前野良沢と杉田玄白は、解体新書の執筆にとりかかります。

もっともオランダ語を理解していたのは前野良沢だけなので、ターヘル アナトミアの翻訳は前野良沢が中心であったようです。

翻訳は約1年半で終了しました。

しかし、当時は書物を自由に発刊できる時代ではなく、特にその内容が人体に関することであればなおさらのこと。

前野良沢と杉田玄白はさらに10回以上の推敲を重ね、ようやく4年後の1774年に解体新書は世に出ることになりました。

一度は刊行された解体新書ですが、最初の解体新書は誤訳も多かったようです。

そこで杉田玄白から改訂を命じられたのが、弟子の大槻玄沢。

大槻玄沢が改訂にとりかかったのが1790年、改訂が終了したのが1804年、さらに改訂版が刊行されたのが1826年。

解体新書のきっかけとなった解剖が行われたのが1771年。

改訂版が世の中に出たのが1826年。

様々な事情があったにせよ、解体新書には膨大な年月が費やされていました。

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さいごに 解体新書に関するエピソードとは


 

 

 

 

 

 

 

 

 

解体新書には不思議なエピソードがあります。

それは、解体新書の著者に杉田玄白の名前はあるものの、前野良沢の名前がないことです。

解体新書は、ターヘル アナトミアの翻訳本。

そして、オランダ語を解する力があったのは、杉田玄白ではなく前野良沢。

解体新書の著者としては、前野良沢が第一にでてこなければおかしいはずです。

しかし、解体新書に前野良沢の名前は見当たりません。

どうしてでしょうか。

これには次のような理由があると言われています。

前野良沢はオランダ語を理解していました。

しかし、それは十分なものではないことは自らが知っていました。

そのため解体新書の翻訳に際しては10回以上の推敲を重ねたものの、前野良沢にはまだまだ不十分なものと映っていました。

前野良沢は学者肌で完璧主義者とも言われていました。

前野良沢にとって解体新書は発刊に値しない。

そのように考えていたフシがあります。

一方の杉田玄白には、そもそもオランダ語の素養がありません。

したがって翻訳にそれほど神経質になることはありませんでした。

また、当時の杉田玄白は病気がちで自分は長生きできないと考えていたとも伝えられています。

そのため、杉田玄白は多少の間違いはあったとしても、少しでも早く解体新書を発刊したいという願いがありました。

前野良沢は不完全なものは出したくないと考え、杉田玄白は不完全なものであっても早くにだしたい。

大きな意見の相違がありました。

結果的に解体新書は発刊されますが、納得できない前野良沢は憤り、解体新書の翻訳者に自分の名前がでることを拒否しました。

このため解体新書の著者から前野良沢の名前が抜け落ちることになりました。

解体新書は現代の歴史の教科書にもでてくるような有名な書物です。

解体新書翻訳の中心人物は前野良沢でしたが、解体新書に関する功績は杉田玄白に大きく偏っています。

果たして、前野良沢と杉田玄白、どちらの判断が正しかったのでしょうか。


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