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はじめに 西郷隆盛の3人の妻とは
江戸時代から明治時代にかけてもっとも活躍した人物。それは西郷隆盛ではないでしょうか。
西郷隆盛は、大久保利通や木戸孝允とともに維新3傑の1人にあげられていますが、その人柄と悲劇的な最期からとりわけ人気の高い人物です。
西郷隆盛は、1828年に生まれ、1877年に亡くなります。波乱万丈の生涯を送った西郷隆盛ですが、その生涯に3人の妻がいたことが確認されています。
まずは、西郷隆盛の妻を順番にご紹介します。
西郷隆盛の3人の妻
最初の妻 伊集院須賀(いじゅういんすが)
2番目の妻 愛加那(あいかな)
3番目の妻 岩山糸(いわやまいと)
それでは、伊集院須賀、愛加那、岩山糸。3人の妻のそれぞれについて簡単にご案内をしていきます。
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最初の妻 伊集院須賀
西郷隆盛が1852年に最初の妻として迎えたのが、伊集院須賀です。西郷隆盛、24歳の頃。
西郷隆盛は薩摩藩(現在の鹿児島県)で生まれ育っていますが、この時の薩摩藩主は島津斉彬。西郷隆盛は、島津斉彬に見いだされ活躍をしていくようになりますが、この時はまだ島津斉彬の目に留まる前。
西郷隆盛自身は、貧しい下級藩士の一人にすぎない存在でした。
一方の伊集院須賀は、詳しくは不明ながらも薩摩藩の中でも有力な氏族であった伊集院氏の一族であったと考えられています。
もっとも別の説では、伊集院須賀の実家である伊集院家は、西郷家と同じく下級武士であったとも言われています。
また、西郷隆盛と伊集院須賀の婚姻は西郷隆盛の父母の勧めであったとも言われていますが、西郷隆盛が一目ぼれをして熱心に口説いた結果とも言われています。
どちらが真実なのかは不明ながらも、伊集院須賀が名家の生まれであったとしたら家格としては不釣り合い。少なくとも、父母の勧めで妻に迎えたという説には疑問が残ります。
一方、西郷家と伊集院家が同格程度であったとしたならば、父母の勧めというのは納得のできる話ですし、西郷隆盛が伊集院須賀を口説いて妻に迎えたと言うのも理解ができるところです。
もっとも、西郷隆盛が伊集院須賀を妻に迎えた直後に、西郷家では祖父、父、母がにわかに亡くなります。その結果、西郷隆盛は急に一家を支える重責を担うことになります。
また、家を支えるだけでも大変なのに、1854年に西郷隆盛は島津斉彬に従って江戸に赴くことになります。
西郷隆盛は小禄の身。しかも江戸へ出府。貧しい西郷家を一人で支えるようになった伊集院須賀は心労が重なり倒れてしまいます。
その様子を見た伊集院須賀の実家である伊集院家と西郷家は話し合い、結果として2人は離婚をすることになります。
その後の伊集院須賀の状況は分かっていません。ただ、西郷隆盛はこの離婚をとても後悔し、生涯を通じて伊集院須賀との別離を悲しんでいたと伝えられています。
2番目の妻 愛加那
西郷隆盛が、1859年に2番目の妻として迎えたのが愛加那です。西郷隆盛、31歳の頃。
西郷隆盛は島津斉彬に見いだされましたが、この時点で島津斉彬は既に死去。また、京都での西郷隆盛の活動も上手くいかず、幕府の目を恐れた薩摩藩は西郷隆盛を奄美大島に隠します。
この奄美大島で出会ったのが島の娘である愛加那(1837年~1902年)で、西郷隆盛と愛加那の間には1860年に菊次郎、1862年に菊子という2人の子供が誕生をしています。
西郷隆盛にとっては不遇の時代ともいえますが、その後、西郷隆盛は鹿児島に戻ります。
しかし、愛加那のような島妻は鹿児島に連れて帰ることができないという島の掟があり、西郷隆盛と愛加那は別離を余儀なくされます。
西郷隆盛の立場から見たら長男の菊次郎と過ごす時間は僅かながらもありましたが、長女の菊子が生まれる前に西郷隆盛は薩摩に戻っています。
夫と別れなければいけない愛加那の心情もさることながら、妻だけでなく生まれたばかりの子、そしてまだ生まれてもいない子とも別れなければいけなくなった西郷隆盛の気持ちはどのようなものであったのでしょうか。
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3番目の妻 岩山糸(西郷糸子)
西郷隆盛が1865年に3番目の妻として迎えたのが岩山糸(1843年~1922年)年です。西郷隆盛、37歳の頃。
岩山糸は、薩摩藩士岩山家の次女。
西郷隆盛は3度目ですが、岩山糸も再婚。このとき、再婚ということで結婚に躊躇する岩山糸を、西郷隆盛は「わしは3度目」といってなだめたというような話が伝わっています。
1865年当時の西郷隆盛は、幕末の動乱期における薩摩藩の中心人物。薩摩に腰を落ち着けている暇はなかったはずですが、西郷隆盛が薩摩を離れている間、西郷糸子は西郷家をしっかりと守り通しています。
西郷隆盛と西郷糸子の間には、寅太郎・牛次郎・酉三と3人の男子が生まれています。さらに、西郷糸子は西郷隆盛の2番目の妻である愛加那の2人の子供、菊次郎・菊子を引き取り養育をしています。
さいごに
西郷隆盛の死後、東京都台東区上野に西郷隆盛の銅像が建立されました。「上野の西郷さん」で知られたこの銅像は1898年に除幕式を迎えています。
このとき、除幕式に招かれた西郷夫人が「宿んし(夫)はこげんなお人じゃなかったこてえ」とつぶやき、同じく除幕式に参列した人々を困惑させたという話が伝わっています。
問題はこのときの女性が誰だったのかということです。
可能性としては、3人の妻とも除幕式に参列できたと言われていましたが、現在ではこの西郷夫人は3番目の妻である岩山糸(西郷糸子)であると結論付けられています。
上野の西郷隆盛の銅像は、明治維新後の西郷隆盛をイメージして作成されたと考えられています。
そのことを考えると、似ているかどうかは別にしても、似ていないと断言ができるのは3番目の妻である岩山糸(西郷糸子)だけということになりそうです。
西郷隆盛にはその生涯で3人の妻が存在をしています。
1人目の妻である伊集院須賀と、2人目の妻である愛加那は、それぞれの事情で別離を余儀なくされ、3番目の妻である岩山糸(西郷糸子)は夫の非業の最期を妻の立場で迎えています。
西郷隆盛の3人の妻は、西郷隆盛のことをどのように思っていたのでしょうか。
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