スポンサーリンク
明智光秀と濃姫(帰蝶)は従兄弟だったの
明智光秀と濃姫(帰蝶)は、従兄弟(いとこ)だったという噂があります。明智光秀は織田信長に仕え、織田家の中でも有力武将の一人に数えられますが、最後は本能寺の変で織田信長を倒した人物です。
一方の濃姫は美濃国の戦国大名斎藤道三の娘で、織田信長に正室として嫁いだ女性として知られています。
明智光秀は前半生が明らかでなく、どうして織田信長に仕えることができたのかはっきりとしない部分もあります。
それが、織田信長の正室である濃姫と従兄弟という関係であれば、濃姫の口利きで織田信長に仕えることができたという説明も成り立ちそうです。
果たして、明智光秀と濃姫は従兄弟だったのでしょうか。
なお、濃姫も明智光秀と同じように不明な点が多い人物です。
名前も織田信長に嫁ぐ前は帰蝶で、嫁いでからは濃姫と呼ばれるようになったと言われていますが、異なる説もあります。
この記事では濃姫という名称で、明智光秀と濃姫は従兄弟だったのかについてお伝えします。
スポンサーリンク
明智光秀と濃姫の関係
明智光秀と濃姫の関係は、二人にとっての祖父である明智光継(あけちみつつぐ、1468年~1538年)まで遡る必要があります。明智光継は東美濃の一部を治めていましたが、当時、美濃国で台頭してきたのが斎藤道三です。
そこで明智光継がとったのが、実の娘を斎藤道三の正室に送り込むことでした。
この女性は小見の方と呼ばれ、帰蝶(きちょう)を産みます。そして、帰蝶が織田信長に嫁ぎ濃姫となります。
一方、明智光継には小見の方以外にも数人の男子がいましたが、そのうちの一人が明智光綱(あけちみつつな、1497年~1535年)で、明智家を相続します。
その明智光綱の子が明智光秀です。
このことから、明智光秀と濃姫の関係は従兄弟という説が成り立ちます。
では、この説は正しいのでしょうか。
まず濃姫の母の小見の方については、その存在が「美濃国諸旧記」や「言継卿記」(ときつぐきょうき)に記載があります。
「美濃国諸旧記」は江戸時代初期のもの。小見の方が生きた時代よりもずっと後に書かれたもので、作者もわかってはいません。
一方の「言継卿記」は小見の方と同時代を生きた、公家の山科言継の日記です。
「美濃国諸旧記」は誤謬の多い史料と言われていますが、「言継卿記」にも書かれているところを見ると、小見の方は明智光継の娘であり、小見の方が濃姫を産んだというのは信ぴょう性が高いように思われます。
では、明智光秀はどうだったのでしょうか。
明智光綱の子が明智光秀であるというのは「明智軍記」に書かれたものです。
しかし、明智軍記は江戸時代中期の1700年頃に書かれたもので、明智光秀が生きた時代よりずっと後にできた読み物で作者も不明です。
一般的に明智軍記は史料としての価値は低いと言われています。
また、明智光秀と親交があり、江戸時代も大名として生き残った細川家の家史に「細川家記」があります。
細川家記は1778年に細川家の藩士がまとめたものです。
その細川家記には「明智光秀は濃姫と縁があった」という記述があります。
細川家の家史で、まとめた人物もはっきりとしているので信ぴょう性があるようにも思われます。
しかし細川家記ができたのは明智軍記よりさらに後のことです。
また、明智光秀の記述に関しては明智軍記を参考にしたと思われる部分もあります。
したがって、細川家記の中でも明智光秀に関する部分については信ぴょう性が高いとはいえないようです。
■合わせて読みたい
スポンサーリンク
明智光秀の前半生の経歴
明智光秀の存在がはっきりとするのは、後に室町幕府の第15代将軍となる足利義昭が、それまでいた朝倉義景の元を離れ、織田信長を頼ったころからです。
言い換えると、それまでの明智光秀の事績は謎に包まれています。
まず、生まれた年がわかりません。
1516年生まれとか、1528年という説が有力ですが、織田信長が生まれた1534年より遅い1540年という説もあります。
また、生まれた場所については明智城が有力とされていますが、明智城そのものが複数存在する有様ですし、美濃国ではなく近江国生まれという説もあります。
また、青年期の明智光秀の事績を追っていくと、明智光秀は美濃国の守護土岐氏の一族で、斎藤道三が台頭してからは斎藤家に仕えていた。
しかし、斎藤道三と子の斎藤義龍が争った時、敗死した斎藤道三側についたことで、斎藤義龍に攻められて明智城は落城。
生き延びた明智光秀は母の実家である若狭国の武田氏を頼り、その後、越前国の朝倉義景に仕えたとされます。
これが事実であれば、斎藤道三に仕える明智光秀と、斎藤道三の娘である濃姫に面識があったとも考えられますが、これらはすべて通説で確固とした証拠はないようです。
濃姫の後半生の経歴
濃姫については、父が斎藤道三、母が小見の方。
さらに生年は1535年で、織田信長に嫁いだのは1549年の頃と、ある程度のことは分かっています。
ところが、その後のことがはっきりとしていません。
明智光秀は前半生は不明な点が多いものの、織田信長に仕えてからの後半生ははっきりとしています。
それに対して、濃姫は前半生は分かっているものの、織田信長に嫁いで以降の事績がほとんど伝わってきていません。
たとえば、亡くなった年についても複数の説があります。
日本の歴史の中でもとりわけ有名な織田信長の正室なのに、正室になって以降の事績がまったく伝わってこない不思議な女性が濃姫です。
■合わせて読みたい
まとめ
この記事では、明智光秀と濃姫の関係についてお伝えをしてきました。一般的には、明智光秀と濃姫は従兄弟だったといわれています。
しかし、明智光秀は前半生に謎が多い人物、濃姫は後半生がわからない人物で、明智光秀と濃姫が従兄弟であったという説については疑問を呈されてもいます。
明智光秀も濃姫も土岐氏の血脈を受け継ぐ人物であることは可能性としては高いものの、従兄弟と断言するには根拠が薄いように思われます。
もっとも小説の世界では、明智光秀と濃姫が従兄弟であった方がストーリーが作りやすいのかもしれません。
また、明智光秀と濃姫には面識があったという前提に立てば、二人が恋仲であったとすることもできるでしょう。
明智光秀と濃姫の関係についてはっきりとした証拠が出てくれば別ですが、それがわからない以上、小説家は想像を掻き立てられるでしょうし、読む私たちも楽しめるかもしれないですね。
■合わせて読みたい
スポンサーリンク
スポンサーリンク