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来島又兵衛とは!禁門の変で生涯を閉じた革命戦士をご紹介

蛤御門
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はじめに

幕末維新の原動力となったのは長州藩と薩摩藩です。そのため、明治政府が樹立されると長州藩と薩摩藩から多くの人材が登用されますが、一方ではそこに至るまでの過程で多くの人材が失われたのも事実です。

そのなかで、江戸幕府に対峙して革命を遂行しようとした人物がいます。その人物こそ来島又兵衛(きじままたべえ)です。結果的に来島又兵衛は革命に失敗し、禁門の変という戦いで生涯を閉じることになります。

この記事では、来島又兵衛が禁門の変に参加するまでを中心に、来島又兵衛の生涯を追っていきたいと思います。

来島又兵衛の略歴

まずは、来島又兵衛の略歴をご紹介します。

 
1817年(文化14年)喜多村家の次男として生まれる。
1836年(天保7年)来島家の養子になる。
1863年(文久3年)長州藩の命で狙撃隊を率いて上洛し八月十八日の政変を経験する。長州藩に戻り遊撃隊を組織する。
1864年(元治元年)遊撃隊を率いて上洛、禁門の変に参加するも狙撃されて戦死。(享年48)

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来島又兵衛の考えと禁門の変

禁門(蛤御門)蛤御門

来島家は長州藩の中では上級の家臣とされていました。そのため、養子に入った来島又兵衛も長州藩では要職を務めていました。そして「八月十八日の政変」前には、長州藩の命令で漁師を集めて組織された遊撃隊を率いて上洛を果たします。

八月十八日の政変は、公武合体派とされた会津藩と薩摩藩と、急進的な尊王攘夷思想を持つ長州藩が政治的に対立し、結果的に長州藩が京都から追い出された事件です。

幕末の最終段階になると薩摩藩と長州藩は薩長同盟を締結し、幕府や会津藩と敵対しますが、この時点での薩摩藩はむしろ幕府を維持する側にいます。そして、八月十八日の政変により、薩摩藩と長州藩の敵対関係はより深まることになります。

折角、遊撃隊を率いて上洛したものの来島又兵衛は無為に長州に戻ることになりますが、この来島又兵衛を触発したのが高杉晋作(たかすぎしんさく、1839年~1867年)です。

高杉晋作も長州藩の上級武士の家に生まれていますが、その思想は過激な尊王攘夷思想で、いつまでたっても攘夷を実行しない幕府に対しても否定的でした。

高杉晋作は外国から侵略に備えるため下関警護を命じられます。そのときに取ったのが志願兵の制度で、高杉晋作は志願兵を集めて奇兵隊を組織します。この動きに呼応したのが来島又兵衛で、同じように遊撃隊を組織します。

八月十八日の政変で長州藩は京都を追放されますが、長州藩は京都に戻るための方策を考えていました。そして、長州藩を京都に戻すことを強行に主張したのが来島又兵衛。来島又兵衛は穏健に物事を進めるということではなく、長州藩の武力を存分に活用して京都に戻ることを主張します。

当時の長州藩はどちらかといえば武力による問題解決を志向していた人物が多かったように見受けられますが、来島又兵衛はまさに急先鋒。来島又兵衛の意見に引き摺られるように長州藩は京都に出兵をします。

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禁門の変と来島又兵衛

禁門(蛤御門)
元治元年7月19日(現在の暦では1864年8月20日)、長州藩は会津藩や桑名藩と戦闘に入ります。禁門の変は、御所に入ろうとする長州藩とそれを阻止する諸藩の戦い。

一時は、長州藩の優勢が伝えられましたが、他の場所を警備していた薩摩藩などが加わると情勢は一変。戦闘は一日で終結し、戦いに敗れた長州藩は壊滅して散り散りに長州藩に逃げ帰ります。

来島又兵衛は禁門の変の戦闘中に、敵方の銃弾で負傷し、その生涯を閉じます。考えようによっては、一つの局地的戦いの中で一人の長州藩士が命を落とした。ただ、それだけのことかもしれません。

しかし、来島又兵衛は今でも歴史の中にその名前を残しています。どうしてでしょうか。

それは、来島又兵衛が禁門の変に臨むときの姿にあったようです。来島又兵衛は出陣に際して、先祖伝来の甲冑を着込みます。当時は外国の武器がどんどん日本に入ってくる時期で、武器も進歩していますし、戦いに臨む武装も動きやすいよう軽装になっています。

その中にあってまるで戦国時代の武士のようないでたちで戦いに臨んだ来島又兵衛の姿は一際目立つものであったはずです。

また、その目立つ衣装のためか、戦場では標的にされ来島又兵衛は薩摩藩の川路利良の銃弾に倒れます。川路利良の銃弾は来島又兵衛を即死させるものではありませんでしたが、最期を悟った来島又兵衛は自ら槍でのどを突き、さらには介錯を命じ生涯を閉じています。

来島又兵衛のいでたちは古風なもの。さらに、その最期もまさに戦国武将そのもの。来島又兵衛の戦いに臨む姿やその最期があまりにも印象深いものであったからこそ、来島又兵衛は今でも多くの人に知られる存在になっているようです。

 

※ 禁門とは

禁門とは「禁裏の門」の略です。禁裏とは天皇の住居で、みだりに出入りできる場所ではありませんでした。その禁裏に通じるのが禁裏の門(禁門)です。

また、禁門の変が起きたのは禁門のうち「蛤御門」です。蛤御門は通常はまったく開くことがない門とされていますが、江戸時代に大火事があったときに、この門が開いたことから、火をとおすと口を開けるハマグリになぞらえて蛤御門と言われるようになったと伝えられています。

さいごに

この記事では、来島又兵衛と禁門の変を中心に書き進めてきました。

当時の長州藩にあって、来島又兵衛は強硬な尊王攘夷論者であり、攘夷を実行するためには幕府と敵対することも厭わない、まさに革命戦士でした。

もっとも、禁門の変後の長州藩は攘夷が無謀であることを悟り、公武合体から討幕へ舵を切った薩摩藩と同盟を組み、最終的には明治政府を作り上げていきます。

果たして来島又兵衛の思いはどの部分がかなえられ、どの部分がかなえられなかったのでしょうか。

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