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菊草(西郷隆盛と愛加那の子)の波乱の生涯をご紹介します

はじめに

この記事では、西郷隆盛と愛加那の間に生まれた菊草の波乱の生涯をご紹介します。まずは、西郷隆盛と妻とそして子供たちについてご紹介をしていきます。

西郷隆盛の妻と子供たち

西郷隆盛は生涯で3人の妻をめとっています。
まずは、3人の妻とその間に生まれた子供たちについてお伝えをします。

最初の妻 伊集院須賀(いじゅういんすが)

西郷隆盛と伊集院須賀(1832年~没年不詳)は1852年に結婚しますが、1854年には離婚。2人の間に、子供は生まれていません。

2番目の妻 愛加那(あいかな)

西郷隆盛は生涯で2度の遠島を経験しています。最初の遠島は奄美大島で、この時、島の娘である愛加那【1837年~1902年(明治35年)】と2度目の結婚をし、1男1女を授かります。

なお、西郷隆盛が奄美大島に遠島になったのは1859年から1861年までの約3年間。赦免された西郷隆盛は薩摩に戻りますが、愛加那は島妻という立場で奄美大島から出ることができないという掟がありました。

また、2人の間に生まれた子供たちも庶子という扱いで、西郷家の正当な後継者とは認められない立場でした。

 

愛加那の間との長男 西郷菊次郎【1861年~1928年(昭和3年)】

愛加那の間との長女 菊草【1862年~1909年(明治42年)】

※ 菊草は菊あるいは菊子と表記されることもありますが、この記事では菊草と表記していきます。

3番目の妻 岩山糸子(いわやまいとこ)

西郷隆盛と岩山糸子【1843年~1922年(大正11年)】が結婚をしたのは1865年。2人の間には、寅太郎、牛次郎、酉三と3人の男子が生まれています。

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菊草の生涯1 生まれてから薩摩に行くまで


 

 

 

 

 

 

菊草は、西郷隆盛と愛加那の子として1862年に生まれます。もっとも父の西郷隆盛は菊草が生まれる前に薩摩に戻っていました。

菊草が生まれたのは、赦免されて薩摩に戻った西郷隆盛が島津久光の逆鱗に触れ、2度目の流罪で沖永良部島に向かう途中の徳之島にいるとき。愛加那は西郷菊次郎や生まれたばかりの菊草を連れて、奄美大島から徳之島に向かい、夫婦そして親子の対面を果たします。

しかし、家族が共に過ごせたのはわずか4~5日。西郷隆盛はさらに遠く離れた沖永良部島に向かいます。

その後、明治維新を迎えるまで菊草は奄美大島で育ちます。父親の西郷隆盛はいなくても、母親の愛加那と過ごせた幼少期は、菊草にとって最も安心して過ごせた時代だったのかもしれません。

明治になり菊草12歳の時、兄の西郷菊次郎とともに薩摩の西郷家に身を寄せることになります。薩摩で西郷菊次郎と菊草を養育したのは、西郷隆盛にとって3番目の妻の糸です。

糸は、西郷菊次郎や菊草を実子と同じように養育したと伝えられていますが、奄美大島を離れることができない実母の愛加那とは離れて暮らすことになります。

また、その後も愛加那は奄美大島を離れることなく、菊草も奄美大島に戻ることはなかったため、この時点で愛加那と菊草は永遠の別れをすることになります。

菊草の生涯2 大山誠之助と結婚するまで

菊草は1876年(明治9年)、14歳の時に大山誠之助(1849年頃~没年不詳)と婚約をします。

大山誠之助は、後世、日清・日露戦争で陸軍大将として活躍した大山巌(おおやまいわお、1842年~1916年)の実弟。また、西郷隆盛と大山巌・大山誠之助は祖父を同じくしています。つまり、西郷隆盛と大山誠之助は従兄弟の関係になります。

大山誠之助は明治政府の中で陸軍少尉の職にありましたが、明治6年の征韓論に敗れ下野し鹿児島に戻った西郷隆盛と行動を共にします。

鹿児島に戻った大山誠之助と、鹿児島の西郷家で養育されていた菊草の婚約でしたが、翌年1877年(明治10年)の西南戦争でその運命が変えられることになります。

西南戦争では、西郷隆盛は反政府の立場であったのに対して、弟の西郷従道は政府側。また、大山巌は政府側の立場であったのに対して、弟の大山誠之助は反政府側。

大山誠之助は西郷隆盛の側につき小隊長として西南戦争を戦います。西南戦争終了後、大山誠之助は捕らえられ宮城県監獄署に収監。約3年後、大山誠之助は釈放。1880年(明治13年)、大山誠之助30歳、菊草17歳の時、ようやく2人は結婚をしています。

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菊草の生涯3 大山誠之助と離婚するまで

大山誠之助と菊草の間には、米子・慶吉・綱則・冬子と4人の子供が生まれます。では、菊草が幸せだったのかというと、どうやらそうとは言い切れないようです。

大山誠之助は釈放されたとはいえ、兄の大山巌と比較すると境遇は雲泥の差です。そのためかどうかはわかりませんが、その後は就職することもなく、酒ばかり飲み、生活は兄などに面倒を見てもらう。

さらに、多額の借金を抱え、菊草など家族に暴力をふるっていたといわれています。

4人の子を授かり一見して幸せそうな菊草でしたが、どうやら苦難の日々を送っていたようです。

さいごに 菊草が亡くなるまで


 

 

 

 

 

 

菊草が大山誠之助と別居できたのは1907年、菊草45歳のころとされています。菊草が大山誠之助と結婚したのは菊草17歳ですから、30年に近い歳月を大酒を飲み暴力を振るう夫と過ごしたことになります。

別居した菊草が身を寄せたのは実兄である西郷菊次郎のもと。当時、西郷菊次郎は京都市長を務めていました。ようやく菊草にも安心の日々が訪れたのかもしれません。

しかし、菊草は2年後の1909年(明治42年)、47歳の時に京都で亡くなります。苦労した年月に比べて、安住できた日々はあまりにも短かったようです。

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