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赤山靱負は西郷隆盛にどのような影響を与えたのでしょうか

はじめに

この記事では、赤山靱負(あきやまゆきえ)は、西郷隆盛にどのような影響を与えたのかについてお伝えをしていきます。

赤山靱負(あきやまゆきえ)とは

まずは赤山靱負について、簡単にご紹介をしていきます。

赤山靱負は、1823年2月27日に生まれます。

生まれたのは薩摩国(現在の鹿児島県)で、時の領主は島津斉興です。

島津家には藩主の下に「御一門」があります。御一門は薩摩藩主の直系子孫で、系統としては4つあったことから「四家」とも言われています。

さらに島津家にはその下に、一所持(いっしょもち)があります。一所持は、島津家の一族や島津家の重臣で形成され、全部で17家あります。

赤山靱負は、一所持の一つである日置島津家の第12代島津久風の次男として生まれています。

のちに日置島津家第13代には、赤山靱負の兄である島津久徴(しまづひさなが)が就き、島津久徴は薩摩藩の家老職を務めています。

もっとも生年月日を確認すると

前述のとおり、赤山靱負は1823年2月27日生まれ。

島津久徴は、1823年5月23日生まれ。

赤山靱負は、兄とされる島津久徴よりも3か月早く誕生していることがわかります。

恐らく生母の家格によるものと思われますが、赤山靱負は日置島津家の庶流にあたる赤山家の養子となり、薩摩藩の中で槍奉行や軍役方掛を務めています。

ところで当時の薩摩藩主である島津斉興には、複数の男子がいました。

とりわけ注目をされるのが、島津斉彬と島津久光です。

島津斉興と正室の間に生まれたのが島津斉彬。島津斉彬は島津斉興にとって長男になります。

島津斉興と側室お由羅の方の間に生まれたのが島津久光。島津久光は島津斉興にとって第5男になります。

島津斉興の後継になるのは、当然のことながら島津斉彬であったはずです。

しかし、島津斉興は側室であるお由羅の方を寵愛し、島津斉彬でなく島津久光を後継に据えようとします。

この結果として起こったのが薩摩藩のお家騒動。

いわゆるお由羅騒動で、薩摩藩は島津斉彬派と島津斉興派の2つに分裂をします。

両者の争いは、当初は島津斉彬派が有利でした。

しかし、島津斉興派も巻き返し、この時点で多くの薩摩藩士が切腹・遠島・蟄居の処分を受けています。

最終的にお由羅騒動は江戸幕府の仲介もあり、島津斉彬が薩摩藩主になりますが、お由羅騒動は後々にも禍根を残すことになったと言われています。

お由羅騒動において、赤山靱負は島津斉彬派に与します。

そして、島津斉興派が巻き返した段階において、赤山靱負は切腹を命じられます。

赤山靱負が亡くなったのは1850年4月15日(享年27)になります。

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赤山靱負が西郷隆盛に与えた影響とは


 

 

 

 

 

 

赤山靱負と西郷隆盛に、どの程度の結びつきがあったのかはわかりません。

ただ西郷隆盛の父である西郷吉兵衛は、薩摩藩の下級武士として赤山家の家政を担当する御用人をしていました。

そして、赤山靱負が切腹した時も様子を見届けたうえで、その後の処置も担当したと言われています。

西郷吉兵衛は、赤山靱負が切腹した時の着衣の片袖を切り離して自宅に持ち帰り、西郷隆盛など家人に見せています。

1823年生まれの西郷隆盛は、この時22歳。

西郷隆盛は後に島津斉彬に見いだされて世に出ますが、この時点では父と同じく薩摩藩の下級武士の一人に過ぎませんでした。

しかし、多感な西郷隆盛は血染めの片袖を見て義憤に駆られます。

そして、この時から西郷隆盛は藩政改革を志すようになったとも言われています。

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さいごに

赤山靱負と西郷隆盛に、どの程度の結びつきがあったのかは定かでありません。

しかし、赤山靱負の悲劇的な最期が、西郷隆盛に大きな影響を与えたのは確かなようです。

赤山靱負の血染めの片袖を見て、西郷隆盛は藩政改革を志すとともに、島津斉彬が薩摩藩主になることを強く望んだと言われています。

後に島津斉彬は薩摩藩主になり、さらに島津斉彬に見いだされた西郷隆盛は世に出ていくことになります。

赤山靱負の死が、西郷隆盛が世に出るきっかけとなったのかもしれません。

ところで、島津斉彬が急死をした後、薩摩藩の実権を握ったのが島津斉彬の弟で、お由羅騒動では島津斉彬の対極にいた島津久光です。

島津久光自身はお由羅騒動に直接的に関わっていたわけではないようで、お由羅騒動後も島津久光は処分を受けることはありませんでした。

この島津久光と西郷隆盛は不仲である事が知られていました。

西郷隆盛が島津久光を嫌ったのにはさまざまな理由があるようですが、その一つに赤山靱負の死があったとも言われています。

赤山靱負を切腹に追い込んだのは、直接の当事者ではないとしても島津久光。

だから西郷隆盛はどうしても島津久光を好きになることはできなかった。

この点について真偽のほどは定かではありません。

もっとも、西郷隆盛は感情の量が人一倍多かったと言われてもいます。

西郷隆盛の島津久光嫌いは、赤山靱負の切腹が大きな原因だったのかもしれません。


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