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西郷従道(西郷信吾)とは?西郷隆盛との関係もご案内します

上野の西郷隆盛像
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はじめに 西郷従道(西郷信吾)とは

この記事では、西郷従道(西郷信吾)とはどのような人物だったのか。そして、西郷従道と西郷隆盛はどのような関係だったのか。そのあたりをご案内していきたいと思います。

まず、西郷従道(西郷信吾)の名前の読み方ですが、西郷信吾は「さいごうしんご」。西郷従道は「さいごうじゅうどう」または「さいごうつぐみち」と読みます。

西郷信吾は、江戸時代までの通称。西郷従道は、明治維新後に政府に届け出た名前です。

なお、西郷従道については2つの読み方をご紹介しましたが、正式には「さいごうじゅうどう」のようです。

次に、西郷従道の生没年と兄弟についてご案内をします。

西郷従道が生まれたのは1843年、亡くなったのは1902年(享年59)。西郷従道の父は西郷吉兵衛、母は政佐で、2人の間には4人の男子と3人の女子が生まれています。

そこで、男子について見ていくと

 

長男 西郷隆盛(1828年~1877年)

次男 西郷吉二郎(1833年~1868年)

三男 西郷従道(1843年~1902年)

四男 西郷小兵衛(1847年~1877年)

 

西郷従道は西郷家の第三男で、長兄には西郷隆盛がいます。また、4人の兄弟の中では一番の長命であったこともわかります。

なお、長男の西郷隆盛と四男の西郷小兵衛は西南戦争で命を落とし、次男の西郷吉二郎は戊辰戦争で生涯を終えています。

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西郷従道(西郷信吾)の略歴

それでは、西郷従道(西郷信吾)の略歴をご案内します。

1843年、西郷従道は薩摩藩の下級藩士である西郷吉兵衛の第3男として生まれています。その後、茶坊主として薩摩藩主島津斉彬の元に出仕。1861年には還俗し、西郷信吾隆興となります。

この場合、信吾は通称、隆興が本名となります。

還俗した西郷信吾は精忠組に加入をします。精忠組とは薩摩藩内の組織で、藩主である島津斉彬を信奉し、尊皇攘夷の活動を行う集団として知られていました。

なお、西郷隆盛や大久保利通など幕末に活躍した薩摩藩士の多くが精忠組に加入をしていました。

1862年には、精忠組の有馬新七らの尊皇倒幕思想に共鳴をしますが、寺田屋事件で有馬新七は亡くなり、西郷信吾も薩摩藩より謹慎処分を受けます。

謹慎処分が解けたのが1863年。その時に起きた薩英戦争に西郷信吾も参加をしています。そして、鳥羽・伏見戦いにより始まった戊辰戦争にも参加。各地を転戦して明治維新を迎えています。

明治になり西郷信吾は西郷従道と名を改め、明治政府の中での活躍を始めます。

西郷従道の転機となったのが、1873年の征韓論です。征韓論に敗れた西郷隆盛は明治政府の職を辞し鹿児島に戻ります。

このとき西郷隆盛を信奉する多くの薩摩藩士も明治政府を去り鹿児島に戻りますが、西郷従道は明治政府に残ります。

そして起こったのが1877年の西南戦争。西南戦争では、西郷隆盛を中心とする私学校と大久保利通を中心とする明治政府が戦っています。

西郷従道は明治政府の中で陸軍卿代行として西郷隆盛に対峙することになります。もっとも西郷従道は戦いに参加することなく、東京で留守政府を守っています。

西南戦争後も西郷従道は明治政府に残ります。その後の西郷従道は、参議や陸軍卿など明治政府の要職を歴任し、晩年には侯爵になっています。

西郷従道が亡くなったのは1902年、病名は胃がんです。

西郷従道は他の兄弟とは異なり戦場で命を落とすことはありませんでした。そして、明治政府の中で力を奮い、存分な成果をあげ生涯を閉じています。

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西郷従道と西郷隆盛の関係とは

西郷従道は、征韓論で兄の西郷隆盛と袂を分かっています。西南戦争で、西郷従道と西郷隆盛は敵味方ともなっています。

そうした事実から西郷従道と西郷隆盛は不仲であったという説もあるようですが、果たしてどうでしょうか。

西郷隆盛はとても度量の大きな人で、全ての人を受け入れる包容力のある人物として知られています。

西郷隆盛と不仲であった。それが分かっているのは、島津久光くらいのものではないでしょうか。

たとえば征韓論で西郷隆盛が下野したときに多くの薩摩の人々が行動を共にしています。また、西南戦争でも西郷隆盛のためならばということで死を厭わなかった人も多いと言われています。

西郷隆盛自身が嫌ったという人はそれほどはいなかったように思われます。ましてや、西郷従道は実の弟です。実際、西郷隆盛と西郷従道はとても仲の良い兄弟であったようです。

一説によれば、西南戦争が起きるとき、西郷従道は西郷隆盛の元に駆け付けようとしたと言われています。

しかし、これを押しとどめたのは西郷隆盛。西郷隆盛は私学校の首魁に祭り上げられていたものの、明治政府に勝てるとは思っていなかったようです。

西郷隆盛自身は死を覚悟していましたし、末弟の西郷小兵衛も西郷隆盛の側にいて戦いで命を落とす可能性が高かった。

ここで、西郷従道が自分の味方になり亡くなってしまったら、西郷家が亡くなってしまうどころか、後に残された西郷家の人々もどうなるかわからない。

西郷隆盛は西郷従道を明治政府に残らせて、その後を託したようです。

征韓論を境に西郷隆盛と西郷従道は違う方向に進んでしまいましたが、やはり兄弟の情は強いものがあったのではないでしょうか。

さいごに 西郷従道(西郷信吾)とは

京都伏見の寺田屋
さいごに西郷従道とはということで、西郷従道の人物像に触れておきたいと思います。

西郷従道は度量の広い人物として知られていました。後世、西郷隆盛が「大西郷」と讃えられたのに対して、西郷従道は「小西郷」と言われていました。

西郷隆盛と西郷従道は、顔が似ていると言われていましたが、性格や度量の大きさも兄譲りであったようです。

西郷従道の大きな特徴は、人を育てることに秀でていたこと。西郷従道の元で育った中でもっとも有名な人物に山本権兵衛がいます。

西南戦争後、海軍大臣となった西郷従道ですが、西郷従道自身に海軍の素養はありません。そこで重用したのが山本権兵衛です。

西郷従道は山本権兵衛の才能を育てるべく、山本権兵衛の提案を受け入れて実務を任せるとともに、山本権兵衛の提案が円滑に実現できるよう明治政府内で自らの権力を使います。

明治時代に日清戦争、日露戦争という2つの大きな戦いが起こり、日本は何れにも勝利をしています。この勝利の要因としてあげられるのが日本海軍の近代化ですが、近代的な海軍を作ったのは山本権兵衛。

そして山本権兵衛に思う存分腕を振るわせたのが西郷従道です。

山本権兵衛がいなければ日本は日清戦争、日露戦争に勝てなかったと言われていますが、その後ろ盾となったのは紛れもなく西郷従道であったようです。

西郷従道は、西南戦争後も明治政府に残り要職を歴任しています。当然、西郷従道を総理大臣にという意見もありました。しかし、西郷従道はそれを断り、総理大臣の座に就くことはありませんでした。

その理由はいくつかあるようですが、もっとも聞かれるのは兄である西郷隆盛は明治政府にとって逆賊だからと言うことです。

1877年、西南戦争で敗死した西郷隆盛は当初は確かに賊軍の将という立場でしたが、1889年には大赦でその罪を赦されています。

それでも、西郷従道は総理大臣になることはありませんでした。やはり西郷従道の心の中には、道義的責任というものが残っていたのでしょうか。

また、西郷従道は西南戦争後も鹿児島に帰ることは一切ありませんでした。これも道義を感じていたためでしょうか。

西郷隆盛と比べたら西郷従道は目立たない存在です。また、幕末から明治維新の流れの中での西郷隆盛の活躍は、他の誰とも比較のしようがありません。

でも、西郷隆盛が大西郷と言われるのに対して、西郷従道は小西郷と讃えられています。

西郷従道は兄の西郷隆盛と同様、並外れた度量の大きさを備えていました。明治政府は西南戦争が終わっても盤石のものとは言えない状態でした。

そのような時代に西郷従道という大きな人物がいなかったら、その後の日本の歴史は異なるものになっていた。

そう考えるのは私だけでしょうか。

 

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