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大村益次郎は1869年(明治2年)に京都で暗殺されます。
この記事では、大村益次郎暗殺の実行犯と理由。そして、大村益次郎暗殺には黒幕の存在もささやかれてはいますが、その噂についてもご紹介をしていきます。
大村益次郎とは
まずは大村益次郎の略歴をご紹介します。1824年(文政7年) | 医師村田孝益の長男として周防国吉敷郡鋳銭司村(すおうのくによしきぐんすぜんじむら)に生まれる。 |
1846年(弘化3年) | 大坂の緒方洪庵の適塾に学ぶ。 |
1850年(嘉永3年) | 郷里に帰り医師となる。名前は村田良庵。 |
1853年(嘉永6年) | 伊予宇和島藩に仕える。蘭学の翻訳とともに軍艦を製造。名を村田蔵六と改める。 |
1856年(安政3年) | 幕府の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)で兵学やオランダ語を教える。 |
1857年(安政4年) | 幕府の講武所(こうぶしょ)で兵学の講義を行う。 |
1860年(万延元年) | 長州藩に仕える。(住まいは江戸のまま) |
1863年(文久3年) | 長州に戻り軍備の仕事に携わる。高杉晋作が創設した奇兵隊の指導をする。名を大村益次郎と改める。 |
1866年(慶応2年) | 第2次長州征伐において軍事面の責任者となり幕府軍を撃破する。 |
1868年(慶応4年) | 戊辰戦争に参加。官軍を訓練しながら江戸へ向かう。上野戦争で彰義隊を1日で殲滅する。 |
1869年(明治2年) | 明治政府に加わり軍制改革を企図するが大久保利通などの反対にあう。京都で暗殺される。(享年46) |
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大村益次郎暗殺の実行犯と理由とは
大村益次郎暗殺の実行犯8人を列記すると次のとおりとなります。
神代直人、団伸二郎、太田光太郎、金輪五郎、関島金一郎、宮和田進、伊藤源助、五十嵐伊織。
このうち、神代直人、団伸二郎、太田光太郎の3人は長州藩の出身。
幕末の長州藩はいろいろな思想を持つ人物がいて、必ずしも一枚岩とは言えない状況にありましたが、大村益次郎も同藩の出身者により生涯を閉じています。
では、神代直人たち8人はどうして大村益次郎暗殺を企てたのでしょうか。その理由としては8人と大村益次郎の考えには大きな相違があったことが考えられます。
明治政府になり大村益次郎が政府の中枢に入ったことで、大村益次郎の考えていることが明らかになってきました。
それが明確に示されたのが、大村益次郎暗殺の少し前にあった軍制改革の論議です。
ここで大村益次郎が主張をしたのが、廃刀令や徴兵制や兵学校の設立。
江戸時代、軍備と言えば武士の専売特許でした。
しかし大村益次郎は武士階級の存在を否定します。
廃刀令は武士の象徴ともいえる刀を取り上げることですし、徴兵令は軍備は武士とか農民という身分に関わりなく国民皆兵を目指すもの。
また、兵学校は武士を否定し職業軍人を育成するものでした。
一方の神代直人たちは尊王攘夷主義者の集まりで、幕府を倒した新政府が攘夷を行う。そして、攘夷をする主役は武士だと考えていた節があります。
要は大村益次郎は近代的な軍隊の創設を考え、神代直人たちは武士の世の中が続くと考えていた。
大村益次郎の考えが世の中に広まるにつれ、神代直人たちは大村益次郎が許せなくなった。それが暗殺に結び付いたと考えられています。
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大村益次郎暗殺黒幕の噂とは
大村益次郎は、1869年に大阪で暗殺されます。
大村益次郎を暗殺したのは、長州藩の神代直人など8人で、大村益次郎暗殺に海江田信義は直接に関与はしていません。
そのことは大村益次郎が大阪で暗殺をされたとき、海江田信義は東京にいたことでも明らかなようで、実際に大村益次郎暗殺に関して海江田信義は処分も受けてはいません。
しかし、大村益次郎暗殺に海江田信義が関与していたのではないかという噂は今でもあるようです。
その根拠としては、
★ 海江田信義は、大村益次郎に対して強い遺恨を抱いていた。
★ 海江田信義は薩摩藩、大村益次郎は長州藩。特に海江田信義には藩としての対抗意識が強くあった。
★ 海江田信義は、大村益次郎暗殺犯と親交があったと伝えられている。
★ 大村益次郎暗殺犯が処刑される際、海江田信義はそれを妨害する動きを見せた。
この中で、海江田信義が大村益次郎暗殺の黒幕である噂の最大の根拠となったのは、海江田信義の大村益次郎に対する遺恨です。
1868年の上野戦争で薩摩の西郷隆盛や海江田信義は幕府の彰義隊殲滅に消極的な態度をとりますが、大村益次郎は彰義隊討伐を主張。
この論戦は大村益次郎の勝利に終わっただけでなく、海江田信義は大村益次郎に「君は戦を知らぬ」という侮蔑的な言葉を浴びせられます。
このことから海江田信義は大村益次郎に対して強い遺恨を持つようになったと伝えられています。
さいごに
この記事手は、大村益次郎暗殺の実行犯と暗殺の理由。そして、大村益次郎暗殺に関する黒幕の噂とその理由をご紹介してきました。
さいごに、大村益次郎の性格について少しだけ考えておきたいと思います。
まず大村益次郎は、武士階級の出身ではありません。
また、大村益次郎の才能を最初に見出したのは宇和島藩であり長州藩ではありません。
このことから大村益次郎は、武士階級に対しての頓着がなく、さらには長州藩に対する思い入れも長州藩士ほどには強くなかったことが考えられます。
また適塾で学んだあと長州藩に戻った大村益次郎が携わったのは医師の業務です。しかし医師としての大村益次郎はまったく人気がなかったと言われています。
その理由はまったく愛想がなかったから。
大村益次郎は超がつくほどの合理主義の人物で語学や数字は得意で、それだけに軍事的才能は卓越したものがありましたが、一方、人付き合いは全くの苦手。
愛想のある言葉を相手に発することができないので村民からは敬遠されていました。また、言葉の使い方を知らないことが海江田信義の逆鱗に触れたとも考えられます。
大村益次郎は幕末で世の中が必要としていた時に、その能力を発揮すべくふいに世間に登場しています。
しかし、その能力が最大限に発揮された後は、周囲の人々の恨みを買ってあっという間に姿を消してしまいます。
とても有能な人物だけど、付き合うのは相当に難しい。それが大村益次郎という人物ではないでしょうか。
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