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はじめに
この記事では「お由羅騒動」について簡単にご案内をしていきます。お由羅騒動とは薩摩藩主の後継者争い。具体的には、第10代薩摩藩主島津斉興(しまづなりおき)と嫡男である島津斉彬(しまづなりあきら)の争いです。
また、お由羅(おゆら)とは人名。島津斉興の側室となった女性の名前です。
お由羅騒動の結果として、第10代薩摩藩主である島津斉興の後継者となったのは島津斉彬です。
嫡男である島津斉彬が第11代薩摩藩主となったわけですから、結果は順当とも言えそうですが、どうしてお由羅騒動は起こったのでしょうか。
それでは、お由羅騒動とは何かを簡単にお伝えしていきたいと思います。
なお、お由羅騒動を高崎崩れと称することもありますが、ここではお由羅騒動に統一して記事を書き進めていきます。
お由羅の方とは
まずは、お由羅騒動の原因ともなったお由羅の方について、ご案内していきます。お由羅の方は1795年に生まれて、1866年に亡くなります。
お由羅の方が生まれたのは江戸。父の仕事は大工と言われていますが、これには異説もあります。もっとも武家ではなく町家の出であったのは確かなようです。
お由羅の方は長じて江戸薩摩藩邸に奉公にでます。そこで島津斉興に見初められ側室になります。
ちなみに、島津斉興は1791年に生まれなので、お由羅の方は島津斉興よりも約4歳の年下であったことが分かります。
島津斉興とお由羅の方の間には3人の子が生まれます。最初の子は女性でしたが、2番目の子が後の島津久光です。
ところで、島津斉興と正室である弥姫との間には5人の子が生まれています。その長男が後の島津斉彬です。
島津斉彬は1809年生まれで、島津斉興と正室弥姫との間に生まれています。
島津久光は1817年生まれで、島津斉興と側室お由羅の方との間に生まれています。
普通に考えたら、島津家の後継者は島津斉彬しかいないはずですが、ここに島津久光を薩摩藩主の後継に推す声がでてきます。
こうしたことが原因となり、1850年にお由羅騒動が起こります。
なお、お由羅騒動の結果はお由羅の方側の敗北に終わりますが、お由良の方はその後も存命し1866年に70歳の生涯を閉じています。
お由羅騒動後のお由羅の方の動向はわかりませんが、お由羅騒動により命を縮めることはなかったようです。
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お由羅騒動の原因とは
お由羅騒動の原因は、薩摩藩主である島津斉興の後継者争いです。特に側室であるお由羅の方などの島津久光派が、嫡男である島津斉彬の追い落としを画策したことが、お由羅騒動の原因となっています。
では、どうして島津久光派は島津斉彬の追い落としを画策したのでしょうか。その原因を2つほどご紹介させていただきます。
お由羅騒動の原因その1
島津斉興の正室である弥姫は1824年に32歳の若さで亡くなります。その後、島津斉興の寵愛を一身に集めたのがお由羅の方。お由羅の方にしてみれば、島津斉彬よりもわが子である島津久光の方がかわいい。また、島津斉興もお由羅の方を寵愛するとともに、島津久光のことも溺愛していた。
島津斉興もお由羅の方も島津斉彬を廃して、島津久光を次の薩摩藩主に強く推したことがお由羅騒動の原因になったと言われています。
お由羅騒動の原因その2
薩摩藩主である島津斉興には、困窮を極めていた薩摩藩の財政を立て直したという功績があります。そして、財政政策の実務に携わっていたのが調所広郷(ずしょひろさと)などの重臣です。
しかし、島津斉彬は海外の知識を積極的に取り入れ、そのための投資を厭わない人物。調所広郷には、そのように映っていたと考えられています。
薩摩藩の財政を立て直した調所広郷からみて、島津斉彬は再度財政を破たんさせかねない人物でした。
薩摩藩の重臣の一部の島津斉彬に対する反発が、お由羅騒動の原因になったと言われています。
島津斉彬派の巻き返し
島津久光派の不穏な動きは、島津斉彬の側にも伝わります。島津斉彬は薩摩藩の正当な後継者であり、島津斉彬自身も聡明であることが知られていました。そうしたことから薩摩藩士の中でも、薩摩藩主に島津斉彬を推す声は強かったと言われています。
また、島津斉彬の正室である恒姫は、一橋家の当主である徳川斉敦。江戸幕府も、島津家の次の藩主は島津斉彬と考えていたはずです。
そして起きたのが島津斉彬派による島津久光派の排除。この動きがお由羅騒動の発端となっています。
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お由羅騒動のあらまし
島津久光を支援していた調所広郷は、薩摩藩の財政立て直しの一環として密貿易という不正を行っていました。その不正を、島津斉彬派が幕府へ密告。幕府の追及を受けた調所広郷は1849年に自害をします。
これで、島津久光派は勢いを失ったかにみえました。
しかし、次に出てきたのがお由羅の方の呪詛。
島津斉彬は多くの子を設けていましたがほとんどが夭折。また、島津斉彬の実弟である池田斉敏も早世。
この重なる不幸を、島津斉彬派はお由羅の方の呪詛の結果と考えます。
そこで起こったのが島津斉彬派のお由羅の方への襲撃の企て。もっとも、この企ては未遂に終わり島津斉彬派は約50人が切腹、遠島、蟄居などの処分を受けます。
この段階で島津斉彬派は大いに勢力を削がれ、薩摩藩主には島津久光が就く直前まで事態は悪化していました。
しかし、島津斉彬派の一部の家臣が島津斉彬を救うために脱藩して、福岡藩に助けを求めます。
福岡藩主である黒田斉溥は、中津藩、八戸藩、宇和島藩の藩主と語らって、老中の阿部正弘を動かします。
結果として、江戸幕府第12代将軍徳川家慶により、島津斉興は隠居を余儀なくされ、薩摩藩主は嫡男である島津斉彬が継ぐことになります。
さいごに
幕末の薩摩藩で起こったお家騒動。それが、お由羅騒動です。お由羅騒動は、順当な結果に終ります。島津斉興は隠居し、嫡男である島津斉彬が薩摩藩主となります。
しかし、島津斉彬は1851年に薩摩藩藩主になるものの、1858年には49歳の若さで急死をしています。
島津斉彬があっけなく亡くなったことで、その死因は毒殺であったという説が根強くささやかれています。
そして毒殺の首謀者は、そのときも存命であった実父の島津斉興であるという噂もあります。
果たして、島津斉興と島津斉彬の対立はお由羅騒動では終わらなかったのでしょうか。
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