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明智光秀と天海の略歴
どんなに有名でも、歴史上の人物には不思議な噂がつきまといます。その一つが、明智光秀「天海説」。
天海説は、明智光秀と天海は同一人物であるという説ですが、この説は単なる噂なんでしょうか、それとも本当なんでしょうか。
この記事では、明智光秀=天海説が生まれた原因。
同一人物説が噂なのか、あるいは本当なのかを調べてみました。
まずは明智光秀と天海、それぞれの略歴についてご紹介します。
明智光秀の略歴
1528年頃 | 美濃国に生まれる(諸説あり) |
1556年頃 | 越前朝倉義景に臣従する |
1568年頃 | 足利義昭に臣従する |
1571年 | 近江国坂本城主となる |
1573年 | 織田信長に臣従する |
1582年6月2日 | 本能寺の変で織田信長を倒す |
1582年6月13日 | 6月13日 山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ死去 |
南光坊天海の略歴
1536年頃 | 陸奥国に生まれる(諸説あり) |
不明 | 出家して随風と名乗り各地で修行 |
1588年 | 川越の喜多院に移り天海と名乗る |
不明 | 徳川家康の参謀となる |
1643年 | 108歳で死去 |
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明智光秀も天海も歴史上有名な人物でありながら、その履歴がはっきりしていないことに特徴があります。
明智光秀は、織田信長に仕えるまでの前半生が謎に包まれています。
美濃国の有力豪族で斉藤道三に仕えた。あるいは織田信長の正室であった濃姫と従兄弟だったなど言われていますが、生年も含めて履歴が確定してません。
天海も同様で、天海の足跡をはっきりと確認できるのは徳川家康に仕えてから。
100歳以上の長命を保ったことは確かと言われていますが、生年も不明ならば、徳川家康に仕えるまでの履歴も諸説あり、はっきりとしていません。
明智光秀も天海も生年を含めわからないことがたくさんある。
そして、概ね同時代を生きている。
仮に山崎の戦いで明智光秀が生き延びて名前を変えていたとしたら、明智光秀の天海説はにわかに真実味を帯びてきそうです。
明智光秀「天海説」の根拠とは
それでは、明智光秀と天海の同一人物説の根拠についてお伝えしていきます。
前述のとおり、明智光秀の天海説の根拠としては、明智光秀と天海の履歴が不鮮明であることと、同時代を生きたことが挙げられます。
ただそれ以外にもいくつかの根拠があるようなので、それを列記してみます。
○ 明智光秀は山崎の戦いで亡くなったとされているが、遺体は発見されなかった。
○ 天海は日光東照宮造営に深く関わっていたが、日光東照宮には明智家の家紋である桔梗紋が多く見られる。
○ 日光東照宮の近くに明智平と呼ばれる場所があるが、その命名は天海が行ったとされる。
○ 明智光秀寄進の灯篭が比叡山にあるが、その寄進日は本能寺の変の20年後になっている。
○ 徳川2代将軍は「秀忠」、3代将軍は「家光」で、それぞれ明智光秀の名前が一字ずつ使われている。
○ 明智光秀の家臣だった斎藤利光の娘お福(後の春日局)は、天海の希望で徳川家光の乳母になった。
○ 明智光秀と天海の筆跡鑑定をした結果、本人かまたはそれに近い人物という鑑定結果が出ている。
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明智光秀「天海説」同一人物の噂は本当なの
明智光秀と天海は同じ時代に生きながら、その生涯はあいまいな部分が多い。また、明智光秀と天海が同一人物である証拠はたくさんある。
それが明智光秀の天海説が生まれる根拠になっています。
ただし、上記の証拠の中には現時点で否定されているものもあるようです。
そのいくつかを挙げると
○ 日光東照宮にある桔梗紋は、明智家の桔梗紋とは異なる。
○ 灯篭は偽造である可能性が高い。
○ 徳川家光の名付け役は、天海のライバルと目されていた金地院崇伝である。
○ お福はそもそも斎藤利光の娘だったのか、出自そのものがはっきりとしていない。
明智光秀「天海説」を肯定するものもあれば、否定するものもあるようです。
そして、現時点では明智光秀と天海の同一人物説を否定する意見の方が強いようですが、果たしてどうでしょうか。
特に明智光秀「天海説」の根拠の一つとなった筆跡鑑定は気になるところです。
筆跡鑑定は科学の力によりもたらされたもの。
筆跡鑑定は明智光秀と天海の筆跡は「本人かまたはそれに近い人物」と結論づけています。
そこで出てくるのは、明智光秀と天海の同一人物説を否定したうえでの、明智秀満「天海説」です。
明智秀満は明智光秀の甥で、山崎の戦い後に自刃したと伝えられています。
しかし、明智秀満の履歴もはっきりとはしていませんし、亡くなった時期も明確ではありません。
仮に明智秀満が明智光秀の甥で、山崎の戦い後も生き延びていたとしたら。。。
年齢的には天海とさらに近くなりますし、明智秀満は明智光秀ほどの知名度はありません。
明智秀満が名を変えて天海として徳川家康に仕えたとしても、大きく騒がれることはありません。
こちらは明智光秀と天海の同一人物説よりもさらに根拠が薄いものにはなりますが、歴史ファンのロマンを掻き立てる噂にはなりそうです。
まとめ
明智光秀「天海説」は以前から言われていることで、実際にいくつもの根拠が見出されています。
もっとも、それぞれの根拠を否定する意見もあり、現在では明智光秀と天海の同一人物説は否定されつつあります。
でも100%否定されているわけではありませんし、100%否定できるだけの根拠もまだないというのが実際のところのようです。
さらに最近では、明智五宿老の一人に数えられる明智秀満「天海説」も出てきているようです。
この同一人物説、将来的に真実がわかるかどうかは不明ですが、歴史ファンにとって興味が続くことは確かなようですね。
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