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柴田勝家と羽柴秀吉の関係とは
この記事では、柴田勝家と羽柴秀吉の関係についてお伝えします。柴田勝家も羽柴秀吉も織田信長の家臣で、織田信長が絶大な権力を持っている間は良好とはいえないまでも、2人が決定的な対立をすることはありませんでした。
しかし織田信長が亡くなったことで、2人は抜き差しならない大きな対立をはじめます。
そして1584年(天正12年)、羽柴秀吉に敗れた柴田勝家は、妻のお市の方とともに自害をします。
柴田勝家と羽柴秀吉の関係を考えたとき、織田信長の存在を無視することはできません。
この記事では、そのあたりを考慮に入れながら、柴田勝家と羽柴秀吉の関係を年表形式で追っていきたいと思います。
年表では柴田・羽柴を2つに分け、それぞれに関連する事項に〇をつけています。
また表が長くなるため、全体を3つに分けてお伝えしていきます。
柴田勝家と羽柴秀吉の関係1 羽柴秀吉になるまで
柴田 | 羽柴 | ||
1522年 | 〇 | 柴田勝家生まれる(諸説あり) | |
不詳 | 〇 | 織田信秀(織田信長の父)に仕える | |
1537年 | 〇 | 羽柴秀吉生まれる(諸説あり) | |
1554年 | 〇 | 織田信長に仕える | |
1556年 | 〇 | 織田信長に仕える | |
1565年 | 〇 | 織田家の奉行職を務める | |
1568年 | 〇 | 織田家の重臣となる | |
1568年 | 〇 | 織田家の奉行職を務める | |
1570年 | 〇 | 〇 | 姉川の戦いに従軍する |
1572年 | 〇 | 木下藤吉郎から羽柴秀吉に名前を改める |
まず年齢ですが、諸説あるとはいえ柴田勝家が1522年生まれ、羽柴秀吉が1537年生まれなので、柴田勝家の方が相当の年長であったことがうかがえます。
また織田家に仕えたのも、柴田勝家の方がずっと早いようです。
ただ、織田信長の家臣になったのは羽柴秀吉の方が早かったかもしれません。
柴田勝家が最初に仕えたのは織田信長の父である織田信秀です。
そして織田信秀が亡くなった後は、織田信長の弟である織田信勝(名前については織田信行という説もあります)の家老になります。
しかし織田信長と織田信勝は不仲で、織田信秀が亡くなった直後から、織田家の後継者争いが始まります。
織田信勝の家老である柴田勝家も織田信勝の側につきますが、この諍いは結果として織田信長の勝利に終わり、命を助けられた柴田勝家は終生織田信長に忠誠を誓います。
そのような経緯があったため、柴田勝家が織田信長の家臣になるまでは、少し時間が経過しています。
一方の羽柴秀吉は、生年も身分もはっきりとわからず、若い頃は職を転々としたといわれています。
羽柴秀吉が武家奉公を始めたのは今川氏の家臣である松下之綱ですが、ここを退転した後に織田信長に仕えます。
もっとも羽柴秀吉の職は草履取りなどの雑用。武士として仕えたわけではなさそうです。
この当時の柴田勝家と羽柴秀吉を比較すると柴田勝家の方が年長であること。
そして、織田信長に仕えたのは遅いとはいえ、織田家の譜代で武将として仕えていること。
どの要素をとっても、織田信長の家臣としての序列は、圧倒的に柴田勝家が勝っていたと考えられます。
ただ、織田信長には極めて大きな特徴がありました。それは、能力のない者を嫌い、能力のある者を重用することです。
柴田勝家も羽柴秀吉も、織田家の中では極めて優秀な人材でした。そのため2人とも順調に出世を果たしていきます。
1568年になると、柴田勝家は織田家の重臣となり、羽柴秀吉は奉行職を務めるようになります。
重臣と奉行職では序列に差はあるものの、一度は織田信長に敵対した柴田勝家、織田信長に小者から仕えた羽柴秀吉。
2人とも大きな出世を果たしたことは間違いないようです。
ところで、織田信長に敵意を抱く大名は多数いましたが、その代表ともいえるのが越前国の朝倉義景と北近江の浅井長政です。
特に浅井長政は織田信長の妹であるお市の方を正室に迎えていて、織田信長にとっては妹婿でしたが、それでも反織田信長に舵を切っています。
この浅井・朝倉連合軍との戦いでも、柴田勝家と羽柴秀吉は武功をあげています。
ただ立場を考えると柴田勝家が上で、羽柴秀吉が下であることに変わりがありません。
そこで羽柴秀吉がとった行動はとても奇抜なものでした。
それまで、羽柴秀吉は木下藤吉郎秀吉を名乗っていましたが、羽柴秀吉に改名します。
当時、織田家には2人の優秀な人物がいました。一人が丹羽長秀で、もう一人が柴田勝家です。
羽柴秀吉は2人のようになりたいということで、それぞれから一字をとり、木下を羽柴に改めています。
なぜ、羽柴秀吉が名前を改めたのかは定かではありません。
本人の言う通り、2人にあやかりたいというのも嘘ではないかもしれません。
しかし、羽柴秀吉の急激な出世を妬むものが多かったためというのが、より多く聞かれる意見です。
羽柴秀吉は武士ではない階級からのし上がっていった。それを羽柴秀吉の能力ではなく、取り入るのがうまいと考える家臣も多かった。
そこで織田家を代表する人物の名前を一字ずついただくことで、風向きを変えようとしたとも考えられています。
あやかりたいと言われて気分を害する人はそうはいません。
丹羽長秀や柴田勝家が改名を受け入れたら、それ以外の人は文句言えない。
改名は羽柴秀吉の高度な戦術だったのかもしれません。
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柴田勝家と羽柴秀吉の関係2 本能寺の変まで
柴田 | 羽柴 | ||
1573年 | 〇 | 〇 | 朝倉氏・浅井氏を滅ぼす |
1573年 | 〇 | 長浜城城主となる | |
1575年 | 〇 | 〇 | 長篠の戦いに従軍する |
1575年 | 〇 | 北ノ庄城主となる | |
1576年 | 〇 | 北陸方面軍司令官になる | |
1577年 | 〇 | 〇 | 軍議で柴田勝家と羽柴秀吉が対立をする |
1577年 | 〇 | 手取川の戦いで上杉謙信に大敗を喫する | |
1577年 | 〇 | 中国方面司令官になる | |
1580年 | 〇 | 織田家の筆頭家老になる | |
1582年 | 〇 | 〇 | 本能寺の変 |
その結果として織田信長から与えられたのは、羽柴秀吉は長浜城、柴田勝家は北ノ庄城です。
この段階になると、柴田勝家が上位にいるものの、羽柴秀吉も猛追をしているという状態になっています。
柴田勝家は、新参で器用ではあるものの武士としての素養を持たない羽柴秀吉を嫌い、疎んじてたといわれています。
それが、はっきり形として現れたのが、北陸方面軍司令官に任命された柴田勝家と、その指示を受ける立場で派遣された羽柴秀吉の対立です。
敵は戦国きっての武将と言われた上杉謙信。
織田家にとって上杉家は難敵中の難敵ですが、対上杉の戦術で柴田勝家と羽柴秀吉はまっこうから対立。
嫌気がさした羽柴秀吉は居城に戻ってしまい、その後に起こった手取川の戦いで柴田勝家は大敗を喫してしまいます。
主君の織田信長は激怒し、羽柴秀吉は命さえ危なかったものの、結果的に他の場所への出陣指令を受け戦功をあげています
そして、柴田勝家より遅れるものの、中国方面司令官の立場に収まっています。
当時の織田家には各方面の司令長官の立場にいる武将が5人いました。
その5人とは、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、滝川一益、そして羽柴秀吉です。
この頃になると、羽柴秀吉は柴田勝家と肩を並べる存在になったと言えそうです。
そして、本能寺の変が起こります。
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柴田勝家と羽柴秀吉の関係3 柴田勝家の最期まで
柴田 | 羽柴 | ||
1582年 | 〇 | 山崎の戦で明智光秀を討つ | |
1582年 | 〇 | 〇 | 清須会議で柴田勝家と羽柴秀吉が対立する |
1582年 | 〇 | お市の方と結婚する | |
1583年 | 〇 | 〇 | 賤ヶ岳の戦い |
1583年 | 〇 | 北ノ庄城でお市の方と共に自害する |
まず、主君の織田信長がいなくなりました。次に、明智光秀という共通の敵が生まれました。
当時、京都に近かったのは柴田勝家です。しかし、行動が早かったのは羽柴秀吉。
羽柴秀吉は山崎の戦いで明智光秀を討ち果たします。
織田信長の元では肩を並べるまでになった羽柴秀吉ですが、明智光秀を破ったことで立場は逆転します。
織田信長の後継者を定める清須会議で、柴田勝家と羽柴秀吉は対立し、結果として織田信長の後継者は羽柴秀吉の意見が通ります。
また所領の分配でも、柴田勝家に小さく、羽柴秀吉に大きくなります。
清須会議で柴田勝家が得られたのは、お市の方を正室に迎えたことだけでしょうか。
お市の方は夫の浅井長政を失った後は、兄である織田信長の庇護を受けていました。柴田勝家は主君の妹を正室に迎えることで、面目を保つことができたようです。
ただ全体を見れば、羽柴秀吉の大勝利であることは疑いのないところです。
その後も、両者の火種はくすぶり続け、1583年の賤ヶ岳の戦いに突入します。
賤ヶ岳の戦いで大敗を喫した柴田勝家は、居城の北ノ庄城に戻りますが、羽柴秀吉の軍勢が襲い掛かってきます。
柴田勝家はお市の方と共に生涯を閉じています。
本能寺の変で織田信長が倒れたことで、柴田勝家と羽柴秀吉の関係は大逆転をします。
それだけではなく、ほんのわずかな期間で柴田勝家は生涯を閉じ、一方の羽柴秀吉は天下を統一し関白の座にまで上り詰めていきます。
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さいごに
この記事では、柴田勝家と羽柴秀吉の関係についてお伝えしてきました。
2人の関係は、最初は柴田勝家が圧倒的に上でした。
少しずつ羽柴秀吉も成り上がって肩を並べるようにまでになりましたが、織田信長がいるうちは、それ以上になることはありませんでした。
しかし、織田信長が亡くなった後は、破竹の勢いの羽柴秀吉に対して、その動きについていけない柴田勝家という構図が明らかになり、短期間で柴田勝家は羽柴秀吉に敗れ去っています。
柴田勝家は、出会いから対立の結果敗れるまで、羽柴秀吉をどのような思いで見ていたのでしょうか。
とても気にかかるところです。
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