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小松帯刀が薩摩藩家老として行ったことなどをご紹介!

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はじめに

江戸時代末期の薩摩藩で家老職を務めた小松帯刀(こまつたてわき)。幕末の薩摩藩士としては西郷隆盛や大久保利通の名前が広く知られ、小松帯刀は目立たない存在です。しかし、小松帯刀がいなければ幕末維新はかなり異なったものになったかもしれません。

この記事では、小松帯刀が薩摩藩家老としてどのようなことを行ったのかについてご紹介をしていきます。

小松帯刀の略歴

まずは、小松帯刀の略歴をご紹介します。

 
1835年(天保6年)肝付兼善(きもつきかねよし)の第3男として薩摩国で生まれる
1856年(安政3年)小松清猷(こまつきよもと)の養子となり小松家を継ぐ
1861年(文久元年)島津久光の側役になる
1862年(文久2年)薩摩藩の家老になる
1870年(明治3年)大阪で病死
小松帯刀は、薩摩藩の重臣である肝付家に生まれます。しかし、家庭の愛情に恵まれず、しかも自身も病弱であったといわれています。

それでも小松帯刀自身には学問の才があり、かつ、病弱でありながらも薩摩藩の剣術として知られた示現流の修練にも励んだと伝えられています。

幕末から明治維新にかけて小松帯刀は短い生涯の中で多くの活躍を見せています。特に薩摩藩家老になった後は目覚ましい活躍を見せています。

それでは、小松帯刀が薩摩藩家老としてどのようなことを成し遂げたのか。そのいくつかをピックアップして時系列でご紹介していきます。

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小松帯刀が薩摩藩家老として行ったこと

小松帯刀が薩摩藩家老として行ったことをまとめると次のとおりいくつか挙げられます。

 

① 集成館を再興する

② 亀山社中の設立・維持に尽力する

③ 薩長同盟を推進する

④ 四侯会議(しこうかいぎ)に関与する

⑤ 版籍奉還を推進する

① 集成館を再興する(1862年 文久2年)

島津斉彬の時代に洋式産業の中心となっていた集成館ですが、島津斉彬の死後は衰退していました。

一方、小松帯刀が家老となってすぐに勃発したのが薩英戦争。薩英戦争は結果として薩摩とイギリスの接近を深める結果になったものの、当時はイギリスの軍事力を思い知らされる結果となりました。

薩摩藩は薩英戦争と小松帯刀の家老就任によって集成館を再興することになり、その後の薩摩藩の近代化を推進することになります。

② 亀山社中の設立・維持に尽力する(1865年 慶応元年)

当時、坂本龍馬は勝海舟の元で神戸海軍操練所にいました。しかし勝海舟は幕閣ににらまれて江戸に召喚。 神戸海軍操練所を廃止せざるを得なくなった勝海舟は坂本龍馬の行く末を親交のあった小松帯刀に託します。

薩摩藩も坂本龍馬が有する操船技術が魅力に映ったようで、出資をして坂本龍馬に亀山社中を設立させます。亀山社中は現在の株式会社に類似した組織で商業活動を重視していましたが、後の薩長同盟に際しても重要な働きを見せています。

③ 薩長同盟を推進する(1866年 慶応2年)

薩長同盟は、犬猿の仲といわれた薩摩と長州の軍事同盟です。

薩長同盟の仲介をしたのは亀山社中の坂本龍馬や中岡慎太郎。長州藩の中心人物は木戸孝允。薩摩藩の中心人物は西郷隆盛。

薩長同盟でまず名前の出てくるのが木戸孝允と西郷隆盛ですが、薩摩藩については小松帯刀も西郷隆盛とともに中心人物とされています。

薩長同盟が締結されたのは京都の小松帯刀の屋敷。薩長同盟を契機に薩摩も長州も討幕に大きく舵を切ることになります。

④ 四侯会議(しこうかいぎ)に関与する(1867年 慶応3年)

四侯会議は、島津久光、松平慶永、山内豊信、伊達宗城の大名経験者など4人による合議制の会議です。四侯会議を考えたのは薩摩藩、より具体的には小松帯刀が中心となり設立したと考えられています。

四侯会議の目的は政治を幕府から朝廷を中心とした合議体制にもっていくこと。しかし、結果的にこの計画はとん挫し、この段階で薩摩藩などは公武合体を諦めて討幕を積極的に考えるようになります。

その後、討幕の密勅が発せられますが、その請書に署名をしたのが西郷隆盛と大久保利通、そして小松帯刀です。また、大政奉還の際には薩摩藩代表として徳川慶喜に将軍の辞職をすすめています。

⑤ 版籍奉還を推進する(1869年 明治2年)

討幕は成功したものの明治新政府には経済的な後ろ盾がありませんでした。そのために行われたのが版籍奉還で、版籍奉還によりそれまで藩が所有していた土地や人民が朝廷に返されることになりました。

当然、この施策に反感を覚える大名は多かったはずですが、薩摩藩でこれを推進したのが小松帯刀です。明治政府設立の中心であった薩摩藩の版籍奉還受諾は他藩にも大きな影響を与えています。

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薩摩藩家老としての小松帯刀の役割

鹿児島の開聞岳の風景開聞岳

薩摩藩で明治維新の立役者としてあまりにも有名なのは西郷隆盛と大久保利通です。では、小松帯刀は薩摩藩でどのような役割を果たしたのでしょうか。

まずは、3人の生年を見ておきたいと思います。

 

小松帯刀 1835年生まれ

西郷隆盛 1828年生まれ

大久保利通 1830年生まれ

 

3人の中では小松帯刀が最も年少です。しかし、薩摩藩内の立場でいえば、小松帯刀は生まれながらの上級武士で、若くして薩摩藩の家老職に就いています。

一方、西郷隆盛や大久保利通は薩摩藩の中でも下級武士。どのような活躍をしても身分制社会の中では、明確な差がありました。

ただ、小松帯刀が他の薩摩藩の家老と異なっていたのは先見の明があったこと。他の家老よりも心情的には西郷隆盛や大久保利通により近かったものと考えられます。

もっとも西郷隆盛や大久保利通はどのような活躍をしようとも、この2人は薩摩藩を離れてはいません。この点においては土佐藩を早くに脱藩した坂本龍馬などとは異なっています。

言い換えれば、西郷隆盛や大久保利通は薩摩藩で実権を握っていた島津久光の了解なしには、ことを進めることができなかったとも考えられます。

とりわけ、西郷隆盛と島津久光は不仲で有名でした。西郷隆盛が島津久光に直談判をしたとしても、その結果は西郷隆盛の思い通りの結果にはならなかった可能性もあります。

島津久光と西郷隆盛や大久保利通の仲立ちをしたのが小松帯刀ではないかと考えられています。小松帯刀は薩摩藩の家老であり島津久光により近い立場であったことは明らかですし、薩摩藩家老という立場である以上、西郷隆盛や大久保利通のように自由に動き回ることはできません。

討幕や明治維新に至るまでの過程において、その思想の中心人物が誰であったのかはわからない部分はあります。西郷隆盛が中心にいた可能性は高いようにも思われますが、あるいは小松帯刀の思想も討幕や明治維新に大きな役割を果たしていた可能性もあります。

ただ、分かっていることは小松帯刀は立案者であり、かつ、実行者でもあったこと。そして何よりも大きなことは、薩摩藩の実験を握っていた島津久光を見事にコントロールしていたこと。

島津久光をコントロールするのは、西郷隆盛では不可能ですし、身分を考えると大久保利通でも難しかったように思われます。

薩摩藩家老として小松帯刀が果たしてきたことは数多くありますが、とりわけ重要なのは小松帯刀が薩摩藩家老であったからこそ明治維新が早く訪れた。そのように考えてもあながち間違いではないような気がします。

さいごに

小松帯刀像小松帯刀像

小松帯刀は、西郷隆盛や大久保利通に比べると知名度は劣ります。それは、何よりも小松帯刀が若くして亡くなってしまったこと。これに尽きるのではないでしょうか。

この記事の最後に、他の人物が小松帯刀をどのように評価していたのかについて触れておきたいと思います。

坂本龍馬の小松帯刀評

坂本龍馬は生前に独自の新政府の人事構想を練っていました。そこでは、薩摩の西郷隆盛・大久保利通、長州の木戸孝允、いわゆる明治維新3傑といわれる人々よりも小松帯刀は上位に置かれていました。

薩摩藩で坂本龍馬にもっとも近かったのは小松帯刀なので、その影響もあるのかもしれませんが小松帯刀がひとかどの人物であったのは間違いがないようです。

アーネストサトウの小松帯刀評

アーネスト・サトウは幕末から明治維新にかけて日本に滞在していたイギリスの外交官です。

そのアーネスト・サトウの回顧録によれば、小松帯刀は私があった日本人の中では最も魅力的な人物と絶賛をしています。

また、家格が高いのにも関わらず、態度が優れていて友情にも厚く、さらには政治的な能力もあると語っています。

まとめ

西郷隆盛や大久保利通は討幕だけではなく明治政府の中でも重要な役割を担っていました。

一方の小松帯刀は明治になって以降、版籍奉還などでは名前が出てくるものの、病気で若くして亡くなっています。

このことが、小松帯刀の知名度の低さにつながってしまっているようです。でも、実際は小松帯刀がいて薩摩藩家老という立場で西郷隆盛や大久保利通を支えたからこそ、新しい世の中がきたのではないでしょうか。

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