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目次
戦国三大梟雄は斎藤道三と松永久秀とあとはだれ
この記事では、戦国三大梟雄についてご案内していきます。ところで、戦国三大梟雄の三人とはだれなのでしょうか。
戦国三大梟雄に含まれる人物については、大きく2つの説に分かれているようです。
まず、戦国三大梟雄について2つの説をご紹介すると、戦国三大梟雄を北条早雲、斎藤道三、松永久秀とするもの。
もう一つは、戦国三大梟雄を斎藤道三、松永久秀、宇喜多直家とするものです。
戦国三大梟雄のうち、どうやら斎藤道三と松永久秀は確定的。
残りの一人を、北条早雲とするか宇喜多直家とするかについては意見が分かれているようです。
梟雄の意味とは
梟雄、読み方は「きょうゆう」です。梟雄にはどのような意味があるのでしょうか。
「梟」は「ふくろう」です。最近では梟を「不苦労」などと書いたりと、梟は人気者になっています。
ただ梟雄と書いたときの梟は必ずしも良い意味ではないようです。梟雄と書くときの梟には、梟そのものの生態が反映されてます。
梟は猛禽類で、主にネズミやモグラや小さな鳥を食用にしています。小動物を強靭な脚で捕まえ窒息死させてから食べるのが一般的です。
また活動するのは主に夜。基本的に昼は目を閉じていて、夜になると捕食行動を起こします。
これを人間の生活に置き換えると、人が見ているところではおとなしくしていながら(昼)、人が見ていないところでは残忍な方法で人を陥れる(夜)。
梟雄という場合の梟には、そのような意味があるようです。
「雄」という字には様々な意味があります。もっとも一般的なのは「おす」でしょうが、雄には優れているという意味もあります。
梟雄には、敵を油断させて残忍な行動をすることに優れている。そのような解釈ができるようです。
梟雄という言葉が使われた時代とは
梟雄という言葉は、日本の歴史の中では主に戦国時代に使われています。戦国時代は「下剋上」の時代。家臣が主君を裏切り、主君にとってかわる。
裏切りはいつの時代でもあるのでしょうが、戦国時代は「国」を単位にして行われることが多く、しかも珍しいことではありませんでした。
戦国時代が下剋上の時代であるからこそ、その下剋上を行ったなかでも代表的な人物を梟雄と称したのではないでしょうか。
そう考えると、戦国時代にはもっとたくさんの梟雄がいたのかもしれません。
ただ、この記事では梟雄の中でも代表的な戦国三大梟雄の候補に挙がった4人の武将について簡単にご紹介をしていきます。
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戦国三大梟雄1 北条早雲(ほうじょうそううん)
戦国三大梟雄の一人とされる北条早雲ですが、特に前半生がわからないミステリアスな人物です。
北条早雲は1432年に生まれ、1519年に亡くなったとされています。ただし生年については1456年生まれという説もあります。
1432年生まれならば87歳頃まで生きたことになりますし、1456年生まれなら63歳頃に亡くなったことになります。
また、出自もはっきりとしていません。通説では身分の低い浪人と言われてきました。
しかし北条早雲は伊勢氏の出であり、伊勢氏は室町幕府でも重職を務めていた。北条早雲は身分のある武将であったという説もあります。
北条早雲の運命は、北条早雲の姉または妹が駿河国の守護大名今川義忠に嫁いでから大きく揺れ動いていきます。
今川義忠と北条早雲の姉または妹の間には、後継者である龍王丸(後の今川氏親)が生まれます。しかし1476年に今川義忠は討死。当主を失った今川家は内紛状態に陥ります。
このとき、駿河国に乗りこんだのが北条早雲。
争っていたのは、龍王丸の一派と、今川義忠の従兄弟である小鹿範満の一派。
北条早雲の調停により、小鹿範満が当面家督を代行することとし、龍王丸が成人したら家督を譲ることで決着をしています。
しかし、龍王丸が成人しても小鹿範満は家督を譲ろうとしなかったため、北条早雲は龍王丸を擁して決起。
小鹿範満に勝った龍王丸は、その後元服して今川氏親となります。
北条早雲は褒章として伊豆に近い興国寺城を与えられます。そして、これをきっかけとして、伊豆に触手を伸ばしていきます。
当時の伊豆は政治的に不安定な場所でした。
その伊豆を狙ったのが北条早雲。1498年、北条早雲は堀越公方足利政知の子である足利茶々丸を殺害します。
堀越公方は室町幕府の将軍であった足利家の一族。北条早雲のとった行動は主筋を殺したことに他なりません。
戦国時代は下剋上の時代でしたが、北条早雲の行為はまさに下剋上の典型です。
そのため、この事件が戦国時代の始まりと考える識者も多いようです。
なお、北条早雲は伊豆国を統治するため、興国寺城から伊豆国韮山城へ居城を移しています。
北条早雲の野望はまだまだおさまりません。
次は関東に触手を伸ばします。
当時の関東は管領である山内上杉家と扇谷上杉家の2つの上杉家が争い、それぞれに地域の豪族が従っているという構図でした。
北条早雲は、扇谷上杉家に従っていた小田原城の大森氏に狙いを定めます。
北条早雲が行ったのは、大森氏に贈り物などをして親しくなること。大森氏が信用したころを見はからって、北条早雲は兵を率いて小田原城を急襲。
味方と思っていた北条早雲が実は敵だった。しかしその事実に気付くのが遅かった大森氏は小田原城を放棄。
小田原城は北条早雲のものになります。
その後も北条早雲の野望が留まることはなく、北条早雲の時代に相模国も手中におさめています。
戦国三大梟雄の一人として、北条早雲について簡単にお伝えしてきました。
では、北条早雲は戦国三大梟雄の一人として差し支えはないのでしょうか。
これについては肯定する意見も否定する意見もあるようです。
まず戦国三大梟雄の一人であると肯定する意見からご紹介すると
・ 北条早雲は生年も不明、また前半生も不明でミステリアスな人物であること。
・ 北条早雲は、徒手空拳で国持大名にのしあがったこと。
・ 北条早雲は下剋上を行い、戦国時代を幕開けさせたこと。
などがあげられます。
一方、北条早雲が戦国三大梟雄の一人であることを否定する意見としては
・ 北条早雲は元々ある程度の権力を持っていて、徒手空拳とは言えないこと。
・ 数々の戦いも足利幕府や今川家と打ち合わせをしていた形跡があり、下剋上とは言えないこと。
・ 斉藤道三や松永久秀とは異なり最期は病死であり、かつ北条早雲が起こした後北条氏は5代にわたって関東の覇者であったこと
北条早雲については、まだまだ分からないことが多いようです。
ただ、一昔前の北条早雲は戦国三大梟雄の第一にあげられていたのが、近年の研究ではその要素を打ち消すような事実がたくさん出てきています。
そのため、現在では北条早雲を戦国三大梟雄の一人とすることについては異論もでているようです。
戦国三大梟雄2 斉藤道三(さいとうどうさん)
斉藤道三は1494年に生まれ、1556年に亡くなります。もっとも生年については異なる意見もあるようです。また生まれた場所についても定かではありません。
斉藤道三の父は浪人で、斉藤道三自身は幼少の頃より僧侶としての修業を積んでいたと考えられています。
その後、還俗して油商人となりますが、さらに武士への転身を図ります。
武士となった斉藤道三が仕えたのは長井氏。長井氏は美濃国の守護である土岐氏の家臣でした。
さらに、斉藤道三は守護である土岐氏の次男である土岐頼芸に取り入り、信頼を得ます。
土岐頼芸は父の死後、一度は家督相続の争いに敗れます。このとき土岐氏の当主となったのは土岐頼芸の兄である土岐政頼。
しかし斉藤道三は策略を巡らせて土岐政頼を追放するとともに、土岐頼芸を守護に据えます。
このとき、最初の主であった長井氏を殺害しています。
1541年、今度は主君の土岐頼芸と家臣の斉藤道三の対立が激化します。
結果、斉藤道三は土岐頼芸を追放。実質的に美濃国を手中におさめることに成功しています。
その後、1544年に斉藤道三は家督を子の斉藤義龍に譲り隠居をしています。
しかし今度は斉藤道三と斉藤義龍が敵対。結果的に1556年、斉藤道三は斉藤義龍に敗れてその生涯を閉じています。
では、斉藤道三は戦国三大梟雄としてもよいのでしょうか。
梟雄であることを肯定する意見としては
・ 斉藤道三の前半生は明らかでなく、徒手空拳で美濃国を奪い取っている。
・ 斉藤道三は長井氏・土岐氏とその時々の主を殺害又は追放して美濃国を手に入れている。
また、最期は子に討ち取られている。非業の死を因果応報ととらえ、梟雄とする考えもあるようです。
一方、梟雄であることを否定する意見としては
・ 斉藤道三は一代で美濃国を手に入れたわけではなく、斉藤道三の父と2代にわたって美濃国の国主になった。
斉藤道三一人で美濃国を奪い取ったのなら梟雄とできるが、実際は父と斉藤道三の二人が時間をかけて美濃国を手中に治めた。
したがって斉藤道三は梟雄とはいえないというものです。
少し前までは、戦国三大梟雄の一人として斉藤道三は欠かせない人物でした。
しかし近年の研究で、今までわからなかった事実が浮かび上がってきて、斉藤道三=梟雄という定説に少し綻びもみえています。
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戦国三大梟雄3 松永久秀(まつながひさひで)
戦国三大梟雄と言われる人物のうち、斉藤道三と松永久秀は織田信長と深い関わりがありました。斉藤道三と織田信長は義理の親子。
斉藤道三は義理の息子である織田信長を高く評価し、自分が手に入れた美濃国を織田信長に譲り渡すと伝えたとも言われています。
一方の松永久秀は織田信長とは味方となり敵となり、最期は織田信長と敵対して爆死を遂げています。
松永久秀は、1510年生まれと言われていますが定かではありません。亡くなったのは1577年です。
松永久秀も他の梟雄と同様に生年もはっきりしなければ、前半生も謎に包まれています。
松永久秀は摂津国の守護代であった三好長慶に仕え、頭角を表し始めます。
三好長慶自身も守護代の身分でありながら勢力を増大させ、13代将軍足利義輝を京都から追放。
松永久秀は京都を外敵から守る役割を担わされています。
しばらくの間は三好長慶の寵臣として活動をしていた松永久秀ですが徐々に勢力を拡大。
主君である三好長慶と同等の勢力を有するようになります。
もっとも三好長慶在世中の松永久秀はあくまでも三好家の家臣。三好家に敵対するまではいかなかったようです。
1564年、三好長慶は亡くなります。三好長慶が亡くなり三好家を支えたのはいわゆる三好三人衆。
1565年、三好三人衆を中心に足利義輝を襲撃。足利義輝はここで命を落とします。
昔は松永久秀が足利義輝の襲撃の首謀者のように言われていました。しかし、物理的に松永久秀は足利義輝の襲撃には参加できなかった。
こうした事実がわかり、現在では松永久秀による直接の将軍暗殺説は否定をされているようです。
やはり松永久秀の梟雄というイメージがもたらしたものなのでしょうか。
松永久秀と三好三人衆の関係は徐々に悪化をしていきます。そして松永久秀と三好三人衆は戦うようになります。
その過程で起きたのが1567年の東大寺大仏殿の戦い。この戦いで東大寺大仏殿は焼失し、大仏そのものも多大な被害をこうむります。
大仏殿に火をかけたのは松永久秀であると言われています。
しかし、これも真実は明らかではなく、一説には三好三人衆によるものという可能性も否定されていません。
松永久秀と三好三人衆は敵対しました。これをもって松永久秀は主家を裏切ったと考える事もできます。
もっとも松永久秀は三好家のすべてを敵に回したわけではなく、三好長慶の後継者とされた三好義継は松永久秀を頼っています。
この構図を見る限り、松永久秀は主家を守ろうとしたとも考えることができます。
三好三人衆と松永久秀の争いは松永久秀に不利でした。しかし松永久秀は上洛を果たしたばかりの織田信長に接近。
松永久秀は織田信長に臣従し、織田信長の勢力を利用して三好三人衆を畿内から追放します。
ところが、織田信長の尽力により15代将軍に就くことができた足利義昭が織田信長と敵対するようになります。
そして足利義昭を中心に武田氏・朝倉氏・浅井氏など有力な戦国大名が織田信長包囲網を形成すると、松永久秀も織田信長を裏切ります。
このときは武田信玄が病死、足利義昭が追放、1574年に松永久秀自身も織田勢に包囲されるとあっさりと降伏。
松永久秀は赦されています。
しかし、石山本願寺と織田信長の争いが激しくなってくると松永久秀は再び離反。織田軍に攻め込まれた松永久秀は自害したと言われています。
ところで、松永久秀に梟雄というイメージが定着したのは、織田信長の存在が大きいようです。
織田信長と徳川家康が対面した時、織田信長は同席していた松永久秀のことを13代将軍足利義輝を暗殺し、東大寺大仏殿を焼討ちし、三好家を謀略で貶めた。
この3つの悪行ができる人物はそうはいないと紹介。この逸話が松永久秀を梟雄とする重要な要因となっているようです。
では、松永久秀は戦国三大梟雄としてもよいのでしょうか。
これを肯定する意見としては
・ 松永久秀の前半生は明らかでなく三好三人衆を追放している。
・ 松永久秀は織田信長を2度裏切り、天下の中枢に立とうとしている。
また、最期は自決している。非業の死を因果応報ととらえ、梟雄とする考えもあるようです。
一方、梟雄であることを否定する意見としては
・ 松永久秀は必ずしも主家を裏切ってはいない。
・ 大仏殿の焼打ちは松永久秀の所業と決定づけることはできないし、足利義輝殺害にも直接は加わっていない。
・ 織田信長に対する2度の裏切りも、織田信長の普段の所業と当時の状況を考えたら戦国大名としては当然の行為である。
というものです。
少し前までは、斉藤道三とともに松永久秀も戦国三大梟雄の一人としては欠かせない人物でした。
しかし近年の研究によって、松永久秀=梟雄という定説に少し綻びもみえているようです。
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戦国三大梟雄4 宇喜多直家(うきたなおいえ)
宇喜多直家は1529年に生まれ、1582年に亡くなります。生没年は明らかですが、生まれた場所については諸説あるようです。
宇喜多家は宇喜多直家の祖父が暗殺されて没落。宇喜多直家自身は浦上家に仕えることになります。
宇喜多直家は若年の頃から知謀に優れていたと言われています。
宇喜多直家の青年時代には祖父を殺した人物を暗殺。また一族の者も容赦なく殺害したと言われています。
こうした行動は主家である浦上家を盛り立てるためとも言われていますが、他にも敵対する勢力の殺害を繰り返すうちに、浦上家における最大の実力者になります。
そうして1569年に謀叛。このときは浦上家に敗れますが命は助けられています。
宇喜多直家は1574年になると再び浦上家を裏切ります。
2度目の裏切りに際しては、西の毛利家の協力を得るなど周到な準備が功を奏し、時間はかかりましたが1579年には浦上家の勢力を一掃します。
しかし、宇喜多直家の傍若無人の活躍もここまで。
織田信長の中国進出に伴って羽柴秀吉が進出してくると、毛利家との縁を断ち切り織田家に臣従。1581年には病死をします。
なお、宇喜多直家の嫡男は後の宇喜多秀家。宇喜多直家は死の直前、宇喜多秀家の行く末を羽柴秀吉に頼んだと言われています。
では、宇喜多直家は戦国三大梟雄としてもよいのでしょうか。
これを肯定する意見としては
・ 宇喜多直家は恵まれない境遇から身を起こし、最後は主家を追放している。
・ 宇喜多直家は謀略に優れ、多くの敵を謀略などで葬っている。
一方、梟雄であることを否定する意見としては
・ 敵に対しては苛烈であったが、家臣は大切にしている
・ 最後は織田家に臣従し、織田家の家臣である羽柴秀吉に宇喜多秀家の後事を託している。
梟雄であることを否定する意見を見ていると、宇喜多直家については悪逆非道というイメージからは離れているようにも見受けられます。
さいごに
この記事では戦国三大梟雄と言われる4人の武将について簡単にご紹介してきました。梟雄そのものに明確な定義がないだけに、戦国三大梟雄にも絶対はありません。
戦国時代は下剋上の時代。家臣が主家を裏切り、最後は主家を乗っ取る。
こうしたことは当たり前のように行われていましたが、その中でも特に目立つ人物が梟雄の候補にあげられているようです。
もっとも、一人ひとりの武将を見ていくと、確かに残忍な行動も見受けられますが、そうでない部分も多分にあります。
梟雄というのは、あくまでも人の噂が定説になったようなもの。
また、梟雄と言われるようになってから、新たな研究でそれまでの定説が覆されたというものも数多くあるようです。
現在は、北条早雲、斉藤道三、松永久秀、宇喜多直家。
この4人が戦国三大梟雄の候補となっているようですが、将来は新たな人物が梟雄と言われるようになっているかもしれないですね。
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