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石田三成と大谷吉継の関係を逸話から探ってみました!

関ケ原古戦場跡の石碑
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はじめに

関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れた石田三成は有名な人物です。

対して大谷吉継は知名度では劣っています。しかし当時の大谷吉継は、有能な武将として知られていました。

そんな大谷吉継が、どうして関ヶ原の戦いで石田三成の味方をしたのか。どうやら、石田三成と大谷吉継には深い関係があったようです。

この記事では、石田三成と大谷吉継の関係を逸話から探ってみることにしました。

大谷吉継とは

大谷吉継は1559年に生まれ、1600年に亡くなります。

天下を取る前の豊臣秀吉の小姓となり、1589年には5万石の大名になります。ただ30歳を過ぎたころから病に冒されます。

豊臣秀吉の死後は、石田三成とは異なり徳川家康に接近。

そのため、関ヶ原の戦いの直前には石田三成の挙兵を思いとどまらせようとしますが、結果的には石田三成に味方をします。

関ヶ原の戦いでは奮戦するものの、小早川秀秋の裏切りにより大谷吉継の軍は壊滅し、大谷吉継も討死します。

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石田三成と大谷吉継の関係

石田三成と大谷吉継にはいくつかの逸話があり、そこから2人の関係を探ることができます。

まずは、逸話以外で石田三成と大谷吉継の関係を探ってみます。

その1

石田三成も大谷吉継も、近江出身と考えられています。

豊臣秀吉は成り上がりのため先祖伝来の家臣というものを持たず、自らの出世に合わせ家臣を増やしてきました。

織田信長に臣従したころの豊臣秀吉の拠点は尾張。身分も低かったため、家臣は親せきなどを中心に尾張の者を採用していました。

このときの家臣が、加藤清正や福島正則です。

豊臣秀吉が出世すると拠点が近江国に移ります。このとき家臣になったのが、石田三成や大谷吉継です。

こうした家臣団の構成から、豊臣家は尾張派と近江派の2つの派閥が生まれます。

尾張派は武断派、近江派は文治派とも言われていて、両者の関係は必ずしも良好とは言えませんでした。

石田三成も大谷吉継も近江の出身。同一派閥で、しかも大谷吉継は石田三成を介して豊臣秀吉に臣従したとも伝えられています。

石田三成と大谷吉継が幼馴染であったかどうかは不明ですが、若いころから関係があったのは確かなようです。

その2

石田三成も大谷吉継も豊臣秀吉の元、小姓として出発をしています。

賤ヶ岳の戦いでは「七本槍」には名前はでていないものの武功を上げ、太閤検地や九州征伐や小田原攻めなどでも共に働いています。

また、朝鮮出兵では奉行や軍監を務めるなど細かな部分は異なっていても、同種の仕事を務める場合が多かったようです。

この間、石田三成と大谷吉継に諍いがあったという記録などはないようなので、仕事面で2人が衝突することはほとんどなかったと思われます。

その3

石田三成と大谷吉継は縁戚関係にありました。

具体的には、石田三成と真田昌幸は義兄弟。また、真田昌幸の次男真田信繁(真田幸村)の妻は大谷吉継の娘。

この縁戚関係も、石田三成と大谷吉継の関係に影響を及ぼした可能性があります。

それでは逸話から石田三成と大谷吉継の関係を探ってみます。

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逸話から探る石田三成と大谷吉継の関係

それでは逸話から、石田三成と大谷吉継の関係を探ってみます。

逸話その1

大谷吉継が業病にかかってからのことです。

豊臣秀吉主催の茶席に大谷吉継も参加しました。お茶を回し飲みして、次の出席者に引き継ぎます。

しかし、大谷吉継は業病。お茶の回し飲みをすると病気が移ってしまうと思われ、大谷吉継より後の出席者は、茶碗に口をつけるふりをして次の者に渡していきました。

そのことは大谷吉継自身も気が付いています。しかし石田三成の順番になった時、石田三成は気にすることなく茶碗に唇をつけお茶を飲みます。

このことに大谷吉継は大きな感銘を受けたと言われ、この逸話が石田三成と大谷吉継の関係を示す代表的なものになっています。

ただし、この逸話は江戸期に入ってからのもので信憑性は低いとされていますし、大谷吉継の病気についても詳しいことはわかっていません。

逸話その2

石田三成と大谷吉継は衆道、つまり男色の関係にあったという逸話があります。

確かに戦国時代、戦場にいる時間が長い武将にとって衆道は一般的な風習でした。完全に否定することはできません。

ただ、石田三成と大谷吉継は衆道であったという説も江戸期に入ってからのもの。しかも第1級と言われる史料に見つけることはできません。

逸話として納得できないわけではありませんが、信憑性には欠けそうです。

逸話その3

1587年、時期的には豊臣秀吉の九州征伐の頃です。大谷吉継は豊臣秀吉に諫言し、豊臣秀吉から謹慎を命じられています。

このとき石田三成は神屋宗湛から茶の名器を借り、大谷吉継に観賞させて慰めます。

さらに石田三成は豊臣秀吉の実弟である豊臣秀長にとりなしを依頼。結果的に、大谷吉継は謹慎を解かれます。

逸話その4

関ヶ原の戦いの直前、大谷吉継は石田三成の居城である佐和山城を訪問します。その目的は石田三成の挙兵を思いとどまらせるため。

大谷吉継は石田三成の面前で、

「石田三成は横柄なので豊臣家を思う者も徳川家に走らせている」

「石田三成は才覚は優れているが勇気や決断力は欠ける」

「石田三成が上に立ってもついてくるものはいない」

と相当に厳しい言葉を浴びせ、石田三成の挙兵を止めようとします。

しかし、石田三成の覚悟を知った大谷吉継は、石田三成の挙兵を思いとどまらせることを諦め、むしろ石田三成の味方になることを決心します。

本来は徳川家康と昵懇であった大谷吉継、石田三成では徳川家康に勝てないことを知っていた大谷吉継。

しかし、結果的に大谷吉継が選んだのは石田三成。

敗れることを覚悟して石田三成の味方をした大谷吉継は、この逸話で後世の人々の評価を一気に高めることになります。

もっとも、これには異説もあります。

まず、この当時、ある事件がきっかけで大谷吉継は徳川家康に対して不信感を持っていたと言われています。

また、結果的に関ヶ原の戦いは徳川家康の勝利に終わったものの、戦前は石田三成の西軍が有利だったとも考えられていました。

つまり、大谷吉継は石田三成との友情だけではなく、実利を考えて行動をした。

この説に従えば、大谷吉継の佐和山城訪問は、石田三成の挙兵を思いとどまらせるためのものではなく、むしろ軍議に近かった。

このような解釈もあるようです。

さいごに 大谷吉継の評価とは

大谷吉継は近江派に属していました。

一般的に近江派は尾張派とは仲が悪いと言われていました。特に石田三成と、加藤清正や福島正則は犬猿の仲。

ところが、大谷吉継と尾張派の関係は悪いものではなかったと考えられています。

それは大谷吉継は計数などに明るかったという近江派の特徴を持ちながら、武術も秀でていたためです。

大谷吉継はとてもバランスの良い武将だったと言われています。

大谷吉継は有能であったため徳川家康からも大きな評価を得ていました。

大谷吉継も徳川家康と昵懇になることを望み、一時は徳川家の家臣以上に徳川家康に近しい武将とも言われていました。

その大谷吉継が石田三成の味方をしたと聞いたとき、もっとも驚いたのは徳川家康。

徳川家康がその報を聞きつけたとき、相当に狼狽したとも伝えられています。

大谷吉継は敗軍の将。しかも石田三成の陰に隠れるような存在であったため、それほど知られていない武将です。

しかし、大谷吉継を一人の武将として見た場合、相当に優秀であったことがわかります。

大谷吉継と石田三成の関係。

そこには創作と言われるような逸話が紛れ込んでいるのかもしれませんが、それを差し引いても石田三成と大谷吉継は深い関係で結ばれていたことは間違いないようです。

大谷吉継は、石田三成との巡り合いがなければ出世できたかどうかわかりません。

しかし、石田三成とともに行動さえしなければ、もっと違う形で歴史に名を残した人物。そのように思えて仕方がありません。
 
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