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はじめに
この記事では、藤原道長と紫式部の関係を時系列でお伝えします。藤原道長 | 966年~1028年 |
紫式部 | 973年頃~1031年頃 |
紫式部は源氏物語で有名な作家。
二人とも歴史に名を残す人物です。
藤原道長は、生没年も事績もおおよそですがわかっています。
一方、紫式部は生没年も諸説あってはっきりしませんし本名も不確かです。
そのため、藤原道長と紫式部の関係についても、わかっていることが少ないのが実際のところです。
ただ、概ね同時代を生きていますし、関係も一部は記録に残っています。
この記事では、時の流れに沿って藤原道長と紫式部の関係をお伝えします。
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源倫子の女房になる紫式部
987年、藤原道長は源倫子(964年~1053年)を正室に迎えます。このとき、紫式部は源倫子付きの女房(私的使用人)になったという説があります。
紫式部の父方の祖母と、源倫子の母方の祖父藤原朝忠は姉弟で、紫式部と源倫子は又従兄弟の関係にありました。
そのような縁から、紫式部と藤原道長の関係が生まれた可能性があります。
もっとも、紫式部は10歳代前半で、女房になった期間も短かったと考えられています。
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藤原彰子の女房になる紫式部
998年、紫式部は20歳以上年上であったと伝えられる藤原宣孝と結婚。999年に藤原賢子が生まれるも、1001年に藤原宣孝は亡くなります。
藤原宣孝が亡くなった後に、紫式部が始めたのが源氏物語の執筆です。
一方1000年には、藤原道長が長女藤原彰子を一条天皇の中宮(皇后)にしています。
藤原道長は既に大きな権力を握っていましたが、藤原彰子が子を産み、さらにその子が天皇の座につけば、立場はさらに強固なものになります。
ただ、当時は夫が妻を訪ねる妻問婚で、さらに宮中には複数の女性がいました。
藤原彰子自身の魅力だけでなく、その場所はサロンのような楽しさも求められていました。
その役割を果たすのが女房で、藤原道長は才能ある女性を盛んに求めていました。
そんな時、源氏物語が評判になっていた紫式部の存在を知ります。
紫式部は積極的ではなかったともいわれていますが、1006年又は1007年の頃、藤原彰子の女房として仕えるようになります。
紫式部が宮中に入るとき、積極的に事を運んだのは藤原道長であるようです。
また、紫式部の本名は藤原香子と言われることがあるものの真偽はわかりません。
紫式部は宮中に入ったときの名前であり、この名付け親になったのが藤原道長であるという説もあります。
藤原道長と紫式部の関係
紫式部は、源氏物語以外に紫式部日記を著したことでも知られています。紫式部日記は、藤原彰子に仕えていた1008年~1010年に書かれたもので、日記の中に藤原道長に関したことがあります。
時期は不明ですが、藤原道長は紫式部に対して「源氏物語のような恋の物語を書いているのであれば、紫式部にもそれだけの経験があるのだろう。」とからかいます。
一方、紫式部は「私にはそんな経験があるはずもない。」と答えています。
この部分だけであれば、藤原道長と紫式部の関係をうかがい知ることはできません。
しかし、日記には次のような文章もあります。
『夜寝ていると、誰かが戸を叩いている。怖くて声を出すこともなく朝を迎えた。
朝起きると歌があり、そこには「私は泣きながら、遠慮がちに戸を叩いていたのですよ。」というようなことが書かれていた。
遠慮がちに叩いたというようなものではなかったけれど、叩いた人はつかの間の出来心ではなかったでしょうか。
私が戸を開けてしまっていたら、きっと後悔していたわ。』
この相手が誰かは書かれていませんが、前の文章の流れから見ると藤原道長の可能性があります。
紫式部日記には戸を開けなかったと書かれてはいますが、その後のことは一切書かれていません。
また当時の状況を考えると、紫式部は夫と死別しており、相手が藤原道長のように高貴な人物であれば、紫式部が藤原道長を受け入れるのは決して不思議ではないとも考えられます。
ところで、室町時代初期に「尊卑分脈」(そんぴぶんみゃく)という系図集がつくられています。
尊卑分脈は平安時代や鎌倉時代の人物の系図を著したもので、正確な部分もあり評価もされていますが、一方では確証なく書かれている部分もあります。
その尊卑分脈の藤原道長のところには、紫式部を「藤原道長妾」と記されていて、書かれた原因は紫式部日記にあるとも言われています。
まとめ
この記事では、藤原道長と紫式部の関係を、時の流れに沿ってお伝えしました。昔から、紫式部は藤原道長の愛人だったという噂があります。
確かに一時期、紫式部と藤原道長に接点があったのは間違いないところですが、はっきりとわかっているのは、藤原道長がお金をだして紫式部が藤原彰子に仕えたこと。
その他のことは、多くが推測の域をでない。これが、紫式部と藤原道長の関係であったようです。
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