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真田丸とは
この記事では、真田丸に込められた意味を探ってみたいと思います。ところで真田丸とはなんでしょうか。
真田丸は大坂冬の陣において、大坂城の外側の場所に新たに設けられた出城の名称です。
真田丸を作ったのは真田幸村で、真田丸は大坂冬の陣では押し寄せる徳川の軍勢に対して大きな威力を発揮しました。
しかし真田丸の寿命はとても短いものでした。
大坂の陣は「冬の陣」と「夏の陣」の2回行われており、夏の陣で豊臣家は滅亡します。
真田丸が設けられたのは1614年11月に大坂冬の陣が始まる直前です。一方、真田丸が破却されたのは大坂冬の陣が終了して間もなく。
大坂冬の陣が終ったのは1614年12月。徳川方と豊臣方の講和の条件として、大坂城の堀を埋めるという項目がありましたが、堀の埋め立てと共に真田丸も破却されています。
真田幸村の真田丸は歴史上とても有名ですが、真田丸が実在したのはせいぜい数か月。
また実際の戦闘に役立ったのは大坂冬の陣の約1か月。有名な割には儚いものであったことがわかります。
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真田丸は籠城戦のため造られた
真田丸の作られた場所には、どのような意味が込められていたのでしょうか。1600年の関ヶ原の戦いで実質的な権力は豊臣家から徳川家に移りましたが、豊臣家がなくなったわけではなく、その後も徳川家と豊臣家は微妙な関係が続いていました。
しかし、両者のパワーバランスが崩れ大坂の陣か起こります。
大坂の陣で、豊臣方は関ヶ原の戦いに敗れて牢人となっていた著名な武将を大量に雇い入れていて、その中の一人が真田幸村です。
真田幸村など大坂城に入城した諸将は、大坂城を拠点として野戦に持ち込むことを主張します。
一方、大野治長など豊臣家の家臣は籠城戦を主張しました。
戦いの経験が豊富であった諸将は、外部からの援軍の見込みのないのに籠城するだけの戦いは勝ち目がないと主張します。
一方、戦いの経験がほとんどない豊臣家の家臣は大坂城の絶対的な防御力を頼みとして野戦を拒否します。
結果は籠城戦。諸将は落胆しますが、かといって最初から負ける戦をするわけにはいきません。
籠城戦であれば大坂城の防御力をさらに高めておくことが必要になります。籠城戦に決まったことを理由として大阪城の外側の場所に設けられたのが真田丸です。
真田丸は防御のために造られた
大坂城は難攻不落の城と言われていました。
確かに、大坂城の北・東・西などは川に挟まれており、大坂城は攻めにくい場所にありました。
しかし大坂城にも1か所だけ弱点とされた場所があります。その場所が大坂城の南側です。
南側だけは城の外側に平坦地が広がっており、敵側が城に接近するのが比較的容易な場所となっていました。
大坂城の弱点は敵だけではなく、味方も分かっています。
その弱点にいち早く気がついた真田幸村は、大坂城の南側の惣堀のさらに外側の場所に出城を設けています。
この出城が真田丸で、真田丸は東西180m、さらに真田丸の南側、つまり敵を正面に受ける場所には深さ9mの堀を設けていました。
大坂の陣において戦いの方針が籠城に決まったことを理由として、大坂城唯一の弱点とされた城の南側に新たに出城を作った。
さらにその出城の南側で、敵の正面になる場所には深い堀を作った。
従来、真田丸は大坂城の防御力を高める意味をもって造られたと考えられていました。
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真田丸は攻撃のために造られた
真田丸は防御の意味をもって、大坂城南側の弱点とされる場所に造られた出城という見解が主流でした。しかし最近の研究ではまったく別の見解も示されています。それは真田丸は敵を積極的に攻撃するための意味をもって設けられたというものです。
まず、その理由として考えられるのは真田幸村自身の考えです。真田幸村は野戦でなければ敵に勝てないと考えていました。
戦いの方針が籠城戦だとしても、真田幸村にとっては命を懸けた戦です。到底、納得できるものではありません。しかし、大坂城の中にいたのでは野戦に持ち込むこともできません。
そのため、あえて大坂城の外側の場所に真田丸という出城を設け、自らが出陣しやすいようにしたと考えることができます。
また、真田丸の場所には他にも深い意味があったようです。
大坂城の南側は防御力の弱い一帯なので、その場所の防御力を高めるために真田丸が作られたとも言われていました。
しかし、真田丸が作られた場所は大坂城の南側にあった深い谷の外側。つまり大坂城と真田丸の間には大きな谷がありました。
南側は防御に弱いとは言っても、南側全てが防御力が弱かったわけではありません。真田丸が作られたのは大坂城の南側ですが深くて広い谷があった場所の外側。
真田丸が作られたのは大坂城の南側であっても防御力に優れた場所であったことがわかります。
防御を考えるのであれば大阪城の南側には他にもっと大切な場所があったはず。
そうしたことから、真田丸は防御よりも攻撃を重視する出城であったことがわかります。
実際に真田丸は攻撃力を存分に発揮します。真田丸は敵からみて目立つ場所というよりも目障りな場所にありました。そのため敵から執拗な攻撃を受けます。
真田丸に押し寄せたのは、前田利常軍12000人。さらに松平忠直や井伊直孝が加勢して総勢4万人。対する真田幸村は5千人。
5千人の兵で4万人の敵を相手にします。
前田勢が真田丸の正面に立ち攻撃を加えます。
一方、真田勢は真田丸の東西に設けられた出入り口から出撃し、真田丸と前田勢の間に立ちはだかります。
前田勢は前面に立ちふさがった真田勢に攻撃をしかけ、真田勢はじりじりと後退して東西の出入り口から真田丸に退却します。
それを追いかけたのが前田勢。前田勢は真田丸の出入り口に殺到して真田丸に入り込もうとします。
しかし、真田丸の出入り口は狭く作られています。
真田勢は最初から少人数だったので真田丸にすぐ逃げ込むことができます。一方、敵方は大人数で狭い出入り口に殺到するものですから大渋滞。
そこを真田丸の中にいた真田勢、あるいは大坂城の中にいた味方が鉄砲を撃ちかけます。この結果、敵方4万人のうち約1万人が死傷し、真田方は大勝利をおさめます。
まとめ 真田丸を作った意味とは
従来、真田丸を作った意味は防御にあると言われていました。それは真田丸が大坂城の弱点と言われる場所に造られたためです。
一方、最近では真田丸には別の意味があったとも言われています。それは真田丸は攻撃のために造られたというものです。
真田丸が作られた意味。どちらが正しいのかはわかりません。
しかし、真田幸村の信条。真田丸が作られた場所。真田幸村の戦い方。
それらを見ていると真田丸は敵を攻撃するための城、そんな意味が込められていたことを濃厚に感じます。
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