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細川ガラシャはどんな女性?辞世の句と意味もご紹介します

細川氏が居城とした勝竜寺城
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細川ガラシャとは

関ヶ原の戦い前夜。数奇な運命をたどった一人の女性が亡くなります。

その女性の名前は細川ガラシャ。

この記事では細川ガラシャの生涯。

そして、細川ガラシャの有名な辞世の句とその意味をご紹介します。

細川ガラシャの生涯 本能寺の変まで

細川ガラシャは1563年に生まれ、1600年に亡くなります。

細川ガラシャの名前は玉。洗礼を受けてガラシャとなります。

細川ガラシャは数奇な運命をたどります。

細川ガラシャの父は明智光秀。織田信長の有力な家臣でありながら、謀叛により織田信長を本能寺で倒したあの人物です。

明智光秀は武将としても有能でしたが、領国の経営でもその有能さが知られていました。

そうしたこともあって、織田信長に厚遇され、織田家の中でもぐんぐんと出世していきます。

ところで、織田信長には細川藤孝という家臣がいました。

細川藤孝は元々は足利義昭の家臣でしたが、足利幕府が織田信長により滅亡に追い込まれ、足利義昭が追放される中で織田信長に仕えるようになります。

明智光秀と細川藤孝。

この両家を結び付け、さらに織田家の柱にしていこうと考えた織田信長は、明智家と細川家を縁戚関係で結び付けようとします。

そこで考えられたのが、細川藤孝の嫡男である細川忠興と、明智光秀の娘である玉の婚姻です。

2人が婚姻したのは1578年。婚姻そのものは政略結婚の一種でしたが、2人の関係は良好であったと伝えられています。

しかし、そんな幸せもつかの間。2人の間には激震が走ります。

それが1582年の本能寺の変です。

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細川ガラシャの生涯 関ヶ原の戦いまで

本能寺の変で織田信長を倒した明智光秀は、細川藤孝を味方に引き入れようとしますが、この誘いを細川藤孝は拒否。

結果的に明智光秀は羽柴秀吉に討たれますが、玉は生き残ります。

しかし、玉に残されたのは逆心の娘という汚名。

離婚こそしなかったものの、1582年から約2年間、玉は丹後国の味土野の地に幽閉されます。

2年間の空白は、それまで仲の良かった細川忠興と玉の間に隙間風をもたらすことになったようです。

1584年、羽柴秀吉により玉は許され、細川家の大坂屋敷に戻ります。そのころから玉はキリスト教に興味を示すようになります。

キリスト教そのものは、夫である細川忠興から教えられたものですが、細川忠興はとても嫉妬深い性格で知られており、玉は外出さえ満足にすることが出来ない状態でした。

そんな玉に転機が訪れたのが1587年の九州征伐。

夫の細川忠興が九州に赴くことで玉にわずかな自由が与えられ、この頃、玉は身分を隠して教会に赴きます。

玉自身は洗礼を受けることを望みましたが、身分を明かさない女性が洗礼を受けることはできません。

しかし玉はあきらめません。

まず細川家の侍女に洗礼を受けさせます。その侍女から洗礼を受けた玉は、以降、細川ガラシャと称されるようになります。

細川ガラシャが洗礼を受けたのは、夫である細川忠興の了解を得たうえでのことではありません。

そのため細川忠興が九州から大坂に帰り、細川ガラシャ洗礼のことを聞き激怒。

これ以降、夫婦仲はさらに冷え切っていきます。

1600年、徳川家康は上杉征伐に向かい細川忠興もこれに従います。

一方、石田三成は徳川家康が関東に赴くころを見はからって大坂の地で挙兵します。

このとき石田三成がとった方法は大名から人質を取ること。人質をとっておけば、徳川家康に従った大名も味方につくはず。

こう考えた石田三成は強引に人質を取ろうとします。

石田三成は細川家の屋敷を取り囲みますが、細川ガラシャは人質になることを拒否。侍女などを逃がしたうえで自らは死に臨みます。

もっとも洗礼を受けた細川ガラシャは、キリスト教の教えにより自刃をすることができません。

そのため、家臣の小笠原秀清に自らを殺すようにと命じます。

小笠原秀清は細川ガラシャを討ち自らも切腹。細川家の屋敷は爆薬と共に炎上します。

ところで、細川ガラシャが死に臨んで詠んだ歌。いわゆる辞世の句はあまりにも有名です。

その句とは「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」です。

 
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細川ガラシャの辞世の句と意味とは

細川忠興と細川ガラシャ像細川忠興と細川ガラシャ

細川ガラシャの辞世の句を改めてご紹介すると

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」です。

では、この辞世の句にはどのような意味があるのでしょうか。

散るときを知っていて、そしてそのときに散るからこそ、花は花の美しさ、人には人の価値がある。

辞世の句からは様々なことが読み取れるものなのかもしれませんが、簡単に解釈するとこんな意味があるように思われます。

細川ガラシャは幼少時は恵まれていました。細川忠興と結婚しても、しばらくは幸せな生活を送ることが出来ました。

その運命が暗転したのが、1582年の本能寺の変。

本能寺の変で、細川ガラシャは謀叛人の娘となり、離婚こそしなかったものの夫の細川忠興との間を引き裂かれてしまいます。

この2年間は2人にとってとても大きなもので、細川ガラシャは許されて大坂に戻っても、夫婦の関係を昔に戻すことはできなかったようです。

そんな細川ガラシャがすがったのがキリスト教。

洗礼を受けた細川ガラシャは、キリスト教への帰依を深めていきますが、それは夫である細川忠興との距離を、さらに広げてしまうという結果をもたらしてしまいました。

夫との冷え切った関係をつらいと思いつつ、キリスト教への帰依を深めていく細川ガラシャ。

洗礼を受けてから死を迎えるまでの細川ガラシャの気持ちはどうだったのかは知る由もありません。

ただ、辞世の句。

この辞世の句については、死に臨む悲壮感よりも、むしろ開放的な何か不思議な意味を感じ取ることができます。

もしかしたら細川ガラシャにとって、死はむしろ明るい未来であったのかもしれないですね。

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