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目次
月光院(きよ)と天英院や赤穂浪士との関係とは
この記事では月光院(きよ)についてご案内します。月光院の生涯とは。
月光院と天英院との関係とは。
月光院と江島生島事件とは。
そして、月光院と赤穂浪士の関係などについてご案内をしていきます。
月光院の生涯 きよ(喜世)が月光院になるまで
月光院は1685年に生まれ、1752年に亡くなります。月光院の父は勝田玄哲。勝田玄哲は現在も残る台東区元浅草の唯念寺で住職を務めていました。
月光院の運命が大きく動いたのは1704年。月光院は徳川綱豊のもとに出仕することになります。
徳川綱豊は第3代将軍徳川家光の孫。父は徳川家光の三男で甲斐甲府藩主の徳川綱重。徳川綱豊は徳川綱重の長男として1662年に生まれます。
第3代徳川家光の後継は、徳川家光の長男である徳川家綱。子がいなかった第4代将軍徳川家綱の後継は、徳川家光の4男である徳川綱吉。
順番でいえば、徳川家光の三男である徳川綱重の方が上位にありましたが、既に徳川綱重は死去。
このため、徳川綱吉が第5代将軍になっています。
もっとも徳川綱吉にも実子がいなかったことから、徳川綱重の長男である徳川綱豊が後継者となり、1704年江戸城西の丸に入ります。
月光院が徳川綱豊のもとに出仕したのは1704年。徳川綱豊が後継者となり江戸城西の丸に入ったのも1704年。そこで、このあたりを改めて時系列で並べてみます。
時期ははっきりとしていませんが月光院が徳川綱豊のもとに出仕したのは1704年の始めの頃と考えられます。
徳川綱豊のもとに出仕した月光院はすぐに徳川綱豊の寵愛を受けるようになります。
月光院の本名は輝子と伝えられていますが、寵愛を受け徳川綱豊の側室となるとともに、「きよ(喜世)」という名前を与えられます。
1704年12月、徳川綱豊が後継者となり江戸城西の丸に入るとともに、きよも徳川綱豊の正室近衛熈子(後の天英院)とともに江戸城西の丸に入ります。
1709年、5代将軍徳川綱吉が亡くなります。後継者であった徳川綱豊は徳川家宣と名を改め6代将軍となります。
また、同年7月にはきよ(喜世)が男児を出産。この男児は徳川家宣の第4男で鍋松と名付けられます。
1709年に第6代将軍となった徳川家宣ですが1712年に死去。鍋松は徳川家宣の第4男で本来は将軍になることはできないはずでした。
しかし、正室である近衛熈子の生んだ男子、別の側室との間に生まれた男子も夭折していたため、きよの産んだ子がわずか3歳にして第7代将軍徳川家継となります。
また、徳川家宣が亡くなったことで、きよ(喜世)は落飾して月光院、正室の近衛熈子も天英院となります。
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月光院と天英院との関係 江島生島事件まで
徳川家宣の正室である近衛熈子は1666年に生まれ、1741年に亡くなります。
徳川家宣の生年が1662年に生まれ、1712年に亡くなりますので、2人にはそれほどの年齢差のなかったことがわかります。
近衛熈子の名前で分かるとおり、近衛熈子は公家の出。徳川家宣の正室になったのは1673年。2人の婚姻は幕府と朝廷をつなぐ政略結婚のようなものであることがわかります。
それでも2人の関係は良好で一男一女をもうけます。ただ、2人の子供はどちらも夭折したため、特に近衛熈子は深く嘆き悲しんだと伝えられています。
また、子供を失ったころから徳川家宣とは疎遠になり、さらにきよが側室となったことから関係がさらに遠のいたと伝えられています。
なお、前述のとおり1712年に徳川家宣が亡くなるとともに、近衛熈子も落飾して天英院となります。
では月光院と天英院との関係はどのようなものだったのでしょうか。これは2人の経歴などを考えると自然にその答えが出てくるようです。
では、その点についてご紹介をします。
天英院は1666年に公家の娘として生まれたのに対して、月光院は1685年に住職の娘として生まれています。
身分が相当に違いますし、1662年の生まれである徳川家宣から見たら天英院は同世代ですが、月光院は親子ほどの年齢差があります。
月光院が徳川家宣の側室になったことは、同時に徳川家宣の寵愛が月光院に向いたことを示しています。
また、天英院は子供を産みましたが夭折しています。月光院の子供は、徳川家宣の晩年に生まれ、7代将軍になっています。
天英院は正室ではあったが将軍の生母にはなれなかった。月光院は側室であったが将軍の生母になった。
徳川家宣在世中はそれほどではなかったかもしれませんが、徳川家宣が亡くなった後の月光院は将軍の生母として大きな権力を握ることになります。
月光院と天英院の関係は、一言でいえば不仲であった。
これに尽きるようです。
そして、この2人の関係が有名な「江島生島事件」に結び付いたとも言われています。
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江島生島事件とは
江島生島事件は簡単に言えば、1714年に大奥で発生した江戸時代有数の事件です。
江島は大奥で月光院に仕える御年寄でした。
その江島が月光院の代参で徳川家宣の墓参をします。墓参の帰り、江島は芝居小屋に立ち寄り、そこの役者であった生島と芝居が終った後に宴会を催します。
ところが、その宴会が長引いて江島が大奥に戻ったのは門限が過ぎた後のこと。門限に遅れた江島が城内に入れるようにと押し問答をしているところが幕閣の知るところとなり評定所で審理。
江島と生島の密会も疑われるところとなり、あげくは江島は高遠藩にお預け、生島は伊豆大島に遠島となります。
密会の真偽はさておき、江島生島事件は月光院と天英院の不仲が原因とも言われています。
本来は立場も年齢も天英院が上。
しかし月光院は将軍の生母。
大奥の権力は月光院に集中していたようです。
月光院と天英院が単なる不仲であればさほどの問題はありません。しかし、2人とも大奥における権力者で権力争いも激しかった。
江島生島事件も天英院派の策略で、その策略に月光院が嵌められてしまった。
そのように考える人も多いようです。
実際のところ、この事件を契機として月光院派の勢力は大きく削がれ、天英院の権力が復活したと言われています。
月光院と天英院との関係 江島生島事件後
月光院と天英院との関係については不仲であった。これが定説のようです。
しかし、ずっと不仲が続いたかというと、これもまた微妙なところです。
月光院の子である7代将軍徳川家継は3歳で将軍になります。しかし、将軍としての在位期間は短く、1716年、徳川家継は僅か6歳で亡くなります。
このとき、天英院は月光院を慰めたという話があります。
また、8代将軍には紀州藩より迎えた徳川吉宗が就きます。このとき、徳川吉宗を推したのは、月光院という説、天英院という説もありますが、2人とも徳川吉宗を推したという説もあります。
仮に月光院も天英院も徳川吉宗を推したのであれば、この時点では不仲は解消されていたと考えることも可能です。
月光院と天英院は不仲であった。どうやらこのことは事実のようですが、ずっと不仲が続いたのか、あるいはその後は関係が修復をされたのかは定かではありません。
最後に 月光院(きよ)と赤穂浪士の関係
最近では、きよ(喜世)は赤穂浪士の志士と親密であったというドラマもあるようです。
きよは、赤穂浪士が吉良義央を倒し切腹をした後に徳川家宣の側室となり、徳川家宣の死後は月光院として大奥で権力を握った。
そんな風にきよと赤穂浪士を結び付けて考えるものもあるようです。
そもそも、きよについては詳細な史料が残っているわけではありません。だから、きよと赤穂浪士が無関係であったと断言することはできません。
たとえば、きよ(喜世)の義理の姉が浅野家に奉公していたという話があります。
また、大石内蔵助と徳川家宣の正室である近衛熙子(天英院)は縁戚関係にあった。
そんな話もあったようです。
このようにきよ(喜世)と赤穂浪士との間には何らかの関係はあったのかもしれません。
ただ、今、書いたことも明確なわけではないようですし、少なくともきよと赤穂浪士の関係をはっきりと示す史料はないようです。
やはり、きよと赤穂浪士の関係はドラマの中の話。そのように考えた方が無難なように思われます。
天英院は1741年に亡くなります。一方、月光院が亡くなったのは1752年。月光院は天英院が亡くなった後も大奥で権勢をふるったと伝えられています。
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