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目次
北条時政の最期に至るまでの生涯をお伝えします
北条時政は何をした人なのでしょうか。この記事では、北条時政(ほうじょうときまさ、1138年~1215年)の最期に至るまでの生涯を簡単にお伝えします。
北条氏は平氏の流れをくむ一族として、現在の静岡県伊豆の国市辺りを治めていました。
平氏の流れとはいうものの出自は定かでなく、さらには北条氏の本流ではなく支流であるとも考えられています。
また、支配する地域は小さく、源頼朝(みまもとのよりとも、1147年~1199年)が現れなければ、歴史上これほど有名になることもなかったはずです。
そんな北条時政が鎌倉幕府では執権の地位にまで昇りつめています。北条時政はどのような生涯を送り、どのような最期を迎えたのでしょうか。
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北条時政が源頼朝の庇護者になるまで
北条時政が執権になるまでの道のりは、源頼朝を抜きにしては語れません。1160年に平治の乱が起こり、源頼朝の父源義朝(みなもとのよしとも、1123年~1160年)が敗死します。
源義朝の嫡男であった源頼朝は死罪になるところでしたが、伊豆国への流罪に落ち着きます。
このとき、源頼朝の監視役を命じられたのが北条時政です。
時を経て、流人生活を送っていた源頼朝と、娘の北条政子(ほうじょうまさこ、1157年~1225年)が恋仲になり、最初は反対していた北条時政も結局は婚姻を認めることになります。
源頼朝と北条政子の婚姻を契機として、北条時政は監視者ではなく庇護者に変質し、運命も大きく変わっていきます。
北条時政が源頼朝とともに挙兵するまで
平治の乱を契機に、平清盛(たいらのきよもり、1118年~1181年)が多大な勢力を持ち、平氏が栄華を極めます。一方、平氏の隆盛を快く思わない以仁王(もちひとおう、1151年~1180年)は、1180年に全国に令旨を発し平氏打倒を目指します。
このとき、源頼朝は動くことはありませんでした。
それは、源頼朝に平氏打倒の気持ちがなかったのか、平氏打倒は考えたが無理だと思ったのか、そのあたりは定かでありませんが静観してました。
以仁王の令旨はそれなりの効果を生み出し、平氏全盛の世にあっても高い地位を維持していた源頼政(みなもとのよりまさ、1104年~1180年)が平氏打倒の挙兵を試みます。
源頼政の企てはすぐに平氏に鎮圧されたものの、平氏は源氏の動向を注視するようになります。
源頼朝も例外ではなく、伊豆国には平氏に忠誠を誓う人物が続々送られ、源頼朝に対する監視が厳しくなるだけでなく、縁戚関係を結んだ北条氏に対しても圧力が加わります。
源頼朝は、北条時政とともに挙兵を決意。
近隣の豪族に協力を呼びかけるとともに、最初の目標を伊豆国目代山木兼隆(やまきかねたか、不詳~1180年)に定めます。
源義経追捕まで
源頼朝は、山木兼隆襲撃と伊豆国掌握に成功。しかし、その後の石橋山の戦い(現在の小田原市)では、平氏方の大庭景親(おおばかげちか、不詳~1180年)に大敗。
源頼朝は真鶴半島、北条時政も甲斐国に逃れ、この時点では別行動をとりますが、のちに合流。富士川の戦いで平氏に大勝します。
挙兵当時は味方になる者が少なかったものの、勢いを増した源頼朝の元には多くの武将が参陣するようになり、相対的に北条時政の行動は目立たなくなります。
1185年3月、平氏滅亡。
同年10月には源義経の願いにより、後白河院が源頼朝の追討宣旨を発しますが、11月には源頼朝の命を受けた北条時政が上洛し、源頼朝の怒りを伝えます。
結果として、後白河院は源義経追捕のため守護や地頭の設置を認めることになり、鎌倉幕府の勢いが一層増していきます。
北条時政はこの後もしばらく京都にとどまり治安の維持に努め、数か月後に鎌倉に戻った後は目立った活動をしなくなります。
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源頼朝の死と北条時政が執権になるまで
1199年、源頼朝が不慮の死を遂げます。源頼朝の後継となったのは源頼家(みなもとのよりいえ、1182年~1204年)ですが、若年であったことと、独断専行が目立ったことから、同年のうちに合議制の組織である鎌倉殿の13人が生まれ、北条時政も名を連ねます。
合議制の機関とは言っても、実態は有力御家人による権力闘争の場です。
最初に脱落をしたのは梶原景時(かじわらかげとき、1140年~1200年)。
1200年の梶原景時の乱に際して、北条時政がどのような役割を果たしたのかは定かでありませんが、ある程度の関与はあったと考えられています。
次に起こったのが、比企能員(ひきよしかず、不詳~1203年)との対立です。
比企能員は源頼家の乳母父で、源頼朝亡き後の実権は北条氏より比企氏に移りつつあり、同時に北条時政と比企能員の対立も激しさを増していきます。
1203年、源頼家が倒れ一時は危篤の状態にまで陥ります。
この時に動いたのは北条時政。
北条時政は相談事があるといって比企能員を自邸に招き入れ謀殺。さらには、源頼家の嫡男の一幡と比企氏一族を倒してしまいます。
また、比企氏が滅んだことを知り激怒した源頼家を伊豆国修善寺へ追放。最後は修善寺に討手を差し向け、自らの孫でもある源頼家を討ち果たしています。
源頼家の跡を継いだのは源頼家の弟の源実朝(みなもとのさねとも、1192年~1219年)。源実朝の乳母を務めたのは北条時政の娘で、北条政子の妹阿波局です。
政治の実権を比企氏から取り戻した北条時政は勢いを盛り返します。
源実朝は12歳。北条時政とともに政所別当の職に就いたのは大江広元(おおえひろもと、1148年~1225年)。
源実朝は若年、大江広元は京都の下級貴族出身ということもあり、北条時政が実権を握ります。
そして、同年には鎌倉幕府の初代執権の座についています。
義父とは言いながらも源頼朝在世中の北条時政はそれほどに目立つ存在でもなく、勢力もそれほど大きくありませんでした。
しかし、鎌倉殿の13人と言われる合議制の機関ができてからは、権力闘争に打ち勝ち、最終的には執権という大きな権力を勝ち取ります。
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北条時政の失脚と最期を迎えるまで
1204年、源実朝の正室を迎えるため京にいた北条政範(ほうじょうまさのり、1189年~1204年)が急死します。北条政範は、北条時政と継室牧の方(まきのかた、生没年不詳)の間に生まれた子で、北条義時や北条政子の異父弟です。
ただ、北条義時や北条政子は伊豆国の豪族伊東祐親(いとうすけちか、不詳~1182年)の子。
北条政範の母牧の方は貴族の出身で、家格の高さから北条時政の後継は北条政範と考えられていました。
北条時政と牧の方の間に生まれた男子は北条政範のみ。実子を北条時政の後継にする夢が潰えた牧の方は次の策を考えます。
それは、平賀朝雅(ひらがともまさ、不詳~1205年)を次の将軍にすることです。
平賀氏は源氏の流れを汲む一族で、平賀朝雅も源頼朝に重用され猶子になっています。また、平賀朝雅は牧の方の娘婿にもあたります。
牧の方は夫の北条時政に働きかけ、源実朝の殺害とともに、新しい将軍に平賀朝雅をつけようと画策。
しかし、企ては北条政子・北条義時の知るところになり、北条時政の邸にいた源実朝を、身の安全を図るために北条義時邸に移します。
また、御家人の多くも北条義時を支持したため、北条時政は鎌倉を追放、牧の方とともに伊豆国北条で隠棲します。
北条時政は、その後は政治の表舞台に立つことなく、1215年に隠棲の地で病没により最期を迎えています。
さいごに
鎌倉幕府の13人の中には、北条時政だけでなく、子の北条義時も加わっていました。鎌倉幕府の13人という合議制の機関ができた時の北条義時の年齢は30代後半。
当時としては決して若いとも言えない年齢でしたが、北条時政が表舞台に立っていたのに対して、北条義時は目立たない存在でした。
しかし北条時政が執権となり、牧の方に唆された部分はあったにしても、源実朝の暗殺や平賀朝雅を新将軍に据えるなど専横が目立つようになって両者は対立。
ついに父の北条時政は追放され、子の北条義時が2代目執権の座についています。
北条時政は鎌倉幕府の運営に多大な力を振るい、北条氏を執権の座にまで上り詰める原動力になったのは間違いのないところです。
しかし、長寿を保つことができたとはいえ、晩節を汚してしまったのも事実。追放後、晩年の北条時政はどのような気持ちで日々を過ごしていたのでしょうか。
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